【2007年度 在宅医療塾 実践編2】 第3講 患者に寄り添うターミナルケア ― 患者のご家族が語る ターミナルケアとは ―
佐橋 武 氏
父に寄り添って 約10年前から父の介護が始まり、9月27日に83歳の天寿をまっとうするまで父を見守り続けました。最後に菜の花診療所さんでお世話になりました。たいそうな話はできませんが、私と父との10年間をお話しすることが少しでも今日お集まりになられた皆さまのご参考になればと思っています。 父は幼少の頃に伯父の処に養子縁組によって、名古屋から大阪に出てまいりました。大阪の中でも取り分け下町で造花の手仕事をしていたお爺さんの人手を補うという形で親元を離れることになったのです。父のお爺さんへの思い出はあまりよくないことばかりで、父の口からお爺さんの悪口は聞いても、良い話をしたことは覚えておりません。その愛情の足らない不足感を埋めようとしてくれたのか、私や私の兄弟への可愛がりは、常識以上のものがあったと思います。父と母と私たち兄弟の間柄は、たいへん強い絆がありました。のちに父と母は長い間の介護と看護が必要になってきましたが、兄妹3人で力を合わせてお世話をさせて頂くことができました。大変な出来事や苦難の状況は不幸にも幸福にも導いてくれるものだと実感しています。 私は大学を卒業して進路を迷っておりましたが、まもなく家業を手伝うことになりました。私は父と二人で下町の問屋制家内工業のようなところから、いまの船場の店を持つまで30年間ずっと一緒にやってまいりました。生活も仕事も全てが一心同体でした。そんな父が10年前に脳梗塞により体の自由が少しずつきかなくなりました。最初はわずかでしたので、見守る程度のものでした。それが1年、2年と経ち出来ないことが増えてきて、私の介護が少しずつ増えてきました。気が付いてみると常に側にいないといけない状態になっていました。 人が生きていく上で毎日やらなくてはいけないことが、出来なくなっていくということは、本人にとっても家族にとっても辛いことでした。それでも楽になりたいとか、どこかに全て任せようとは全く思いませんでした。いつまでもずっと側にいてやりたいと思いました。そして本人にとって体力的にしんどい事や辛い事は、出来る限り取り除き、少しでも自分が負担を受け持とうと思っていました。それと自分の父のことをこんなふうに言うのは変なのですが、どこか可愛くて憎めない所がある人で、時には喧嘩をしたり、叱りつけたり、色々ありましたがすぐに仲直りをして、手を取り合っていくという具合でした。ところが昨年の暮れ、夜中に父が転倒をし、腰椎の圧迫骨折になってそれから約半月寝たきり生活になり一気に体力を落としました。それから介護だけでは不十分になり、病院に何度も厄介になりました。そんな折に訪問看護があることを知り、ケアセンターの紹介で菜の花診療所を知りました。今から思えば、岡崎さんとの出会いがとても運命的でした。
家族の中での看取り 当初は父の介護はまだまだ続くものだと思っていましたので、週1回程度の看護に来てもらったらよいと思っていました。ところが間もなくして容態が悪くなり、毎日のように看護に来ていただき、ヘルパーさんも菜の花診療所でお願いすることになりました。医療と看護と介護が一体となってのお付き合いが始まりました。岡崎さんの在宅医療に対する情熱が全ての職員さんに行き渡っていて、とても安心の出来る毎日でした。それゆえ日に日に重くなっていく父の容態を見ても、何か落ち着いて受け入れることのできる自分がありました。それは菜の花診療所という安心の出来る船に乗っているからそう思えるのだと毎日手を合わせておりました。毎日がとても濃い思い出です。その最期というとても緊迫した状況の中でのお互いのやり取りが続きました。私にとっては長年連れ添って来た実の父です。でも菜の花診療所の皆さんは昨日、今日出会った人ばかりです。それが本人と一心同体となって父の最期のお世話をいただきました。 父は全てのやり取りを安心して見ていたのだと思います。そして9月27日に安らかに旅立ってくれました。岡崎さんから以前にお世話をされた方の中で感動的なご臨終の話を聞きました。20人近い親族の方の中で、ほとんど息を引き取りかけている老人にひとりずつ声をかけられたそうです。そして20人全員が声をかけ終わったと同時にお亡くなりになられたそうです。言い終えるまで待っていて下さったのですね。そして私の父も同じことがありました。亡くなる前日に岡崎さんが夜遅くに来てくださり、私に「今晩一晩はゆっくり休んで下さい。朝起きて息が止まっていたら大往生だと思ってください。」と言って下さいました。もうわずかだとわかっておられたのかも知れません。その晩耳元で大きな声で、最後の声かけのつもりで色々と安心をさせることを言ってやりました。そして最後に「もう楽になっていいよ。好きなようにしていいよ」と言ってしまったのです。それまでどんなことがあっても、弱気なことを言っても、「頑張るんやで、良くなってドライブに行くんやで、会社に仕事にもどるんやで」と励まし続けていました。この10年間で父に対して初めて楽になっていいと言ってしまったのです。そして言ってしまったあと、これで張り詰めていた気持ちが緩んでしまったのかと、それで思い直したかのように、「でもこっちにおりたかったら、おってもいいで」と言い直したのです。その晩は自分の部屋に戻って一晩ほぼぐっすりと眠れました。今から思えばその寝るときの呼吸は少しゆっくりになっていて、どう考えても夜中の2時か3時ぐらいの感じでした。朝7時に起きてみると、まだゆっくりですが呼吸がありました。すぐに菜の花診療所に電話をいれました。妹がその晩泊まりに来てくれていたので、すぐに姉と孫にも電話をいれさせました。その間、耳元で最後の言葉をかけました。「おやじ、もう頑張らなくてもいいから、楽になりや、ありがとう」と言いました。そして妹が声をかけ、姉と孫たちは携帯を耳元に当て、それぞれが最後の言葉をかけました。一番可愛がっていた下の孫が「おじいちゃん、ありがとう」と言ってくれて本当に同時に呼吸が止まりました。身近な全員が声をかけることが出来ました。私が起きてから15分の間で、朝まで待っていてくれたのだと思いました。 最期を側で看取るということが出来ることは、こんなにも思い出深いものだと実感しています。そして父には本当に幸せな最期を送ることが出来ました。その最期を在宅で看られたということと、菜の花診療所と出会ったことは大変に運の良いことでした。父の場合はたまたま在宅を選んだという流れで、病院か在宅医療か時間をかけて情報を集め検討をしたわけではありません。菜の花診療所と出会ったのは偶然でした。この幸運のお陰で、父は心地よい介護と看護を受けることができ、家族と共にその人生の最期を過ごすことが出来ました。本当にありがたいことでした。