菜の花診療所、岡崎さんとの思い出
最後に、岡崎さんとの思い出をお話ししたいと思います。実は最期の2週間ぐらい前から、毎日夜に岡崎さんから決まった時間にお電話をいただき、励ましを受けておりました。容態が大変悪くなった夜、9時過ぎに岡崎さんが訪ねて来て下さいました。開口一番、『武さん、お風呂に入って。私が看ていてあげるから』と言って下さいました。私が付きっ切りで気の休まる暇もなく疲れきっていると思い、気遣いをして下さったのだと思います。躊躇しましたけれども「はい。甘えさせていただきます」と申しました。元来、人に甘えるのが大変下手な私ですが、すんなりと岡崎さんに甘えることが出来たのも信頼関係がしっかりと出来ていたからだと思います。それでも父のベッドのすぐ横にお風呂場があるので、近くの銭湯に行って来ますと申しました。父の介護が始まって間もなくバリアフリーのお風呂を作りましたが、ずっと父と二人で近くの銭湯に通っていました。私にとっては久しぶりの外風呂でした。その日は長くて暑い夏の終わりを告げるかのように涼しい風が吹き始めていました。夜空には年に一度しか見られないといわれる中秋の名月がくっきりと浮かび上がっていました。父と二人で最期の苦しい格闘の毎日でしたから、この家路に着くまでのほんの数分は本当に心地よいオアシスタイムでした。帰って岡崎さんにこのことを申し上げると大変喜んで下さいました。私にとっては久しぶりの銭湯、風呂上りの涼しい夜風、中秋の名月と温泉旅行に行っても中々味わえないひとときだったのです。この2日後に父は亡くなりました。父の最期に本当に真摯に取り組んで下さった岡崎さんと菜の花診療所の皆様には深く感謝しています。まして私のような思いを少しでも多くの方に味わっていただけるように在宅医療に関わる皆様には尽力くださるように心より願っております。
本日はありがとうございました。
有限会社菜の花 ケアプランセンター
ケアマネジャー 岡崎 和佳子 氏
8月に前のケアマネジャーから訪問看護の依頼があり始まりました。8月の末にはかなり悪い状態でした。息子さんの武さんは仕事(お父さんが造花職人でした)を一生懸命にされて会社を大きくされました。お父さんと武さんの関係でいえば、武さんが全部を牛耳って生活をされている状態でした。会社にも毎日行かれ、介護をしながら仕事をするという日々だったのです。
私たちがビックリしたのは、8月の末(亡くなられる1ヶ月前)ですが、武さんは妹さんとお父さんを連れて、淡路島まで1日かけてドライブに行かれたのです。それは本当に連れて行くのも大変だけど、思いがなければ連れて行けなかっただろうと思います。
私が武さんと会ったのは、前のケアマネジャーから9月6日にケアプランが引き継ぎになり、ヘルパーも菜の花でということで、総合的に私どもの方で援助をさせていただくことになりました。その初日に担当のケアマネジャーと一緒に武さんとお会いしました。1日中会社なので、朝早くから夜9時ぐらいまでお仕事をされており、お昼は帰って食事をさせてから会社に行き、また帰ってくるという事をずっとされていました。一生懸命に介護をされているという気持ちが強く私たちの心を打ちました。一生懸命されていても、容態が悪くなり体はむくんでいきました。当初は点滴をしていましたが、あまり効果がなく点滴も入らない状態でしたので、点滴もしなくなりました。でも何とか食べさせたいという思いがあって、武さんが介助するとお父様は何とか飲み込むのです。看護師よりも武さんが口の中に入れてあげると飲み込むという状態でした。3,4日前だったと思うのですが、意識ももうろうとしている状態でしたが、その時でも椅子に座らせて食べさせていました。その時に武さんから聞いた言葉は、「岡崎さん、座ったときの顔の表情が全然違うのだよ。座ると父の顔になるのです。」と言ってくれたことを私は覚えています。『座らせるなんで危ないよ。危険だよ』という私たちの思いを乗り越えた、もっともっと人が生きることの素晴らしさや関わることの大切さというのを教えられました。
銭湯に行かれた日のことを覚えています。帰って来られて「岡崎さん、僕はねぇ、どんなハワイ旅行に行くよりも今日、近くの銭湯に行ったこの時間が最高だった。夜は中秋の名月がすごくきれいだった。」ということをおっしゃっていただいて、その日の夜は震えるような嬉しい夜でした。11時ぐらいに自転車で家に帰りましたが、その月の美しさを一生忘れないと思います。
亡くなる前の日の夜は、妹さんも来られていたのでご家族だけの時間を過ごしてもらったほうがいいだろうと思い、ヘルパーを急遽中止させてもらいました。私は電話だけは毎晩していましたので、お電話をしたところ、妹にも会って欲しいから来てくださいと言われ、その日の夜に妹さんと初めて会い、いろいろな話をしました。武さんはその時に、お父さんは意識がない状態でしたが、お父さんに生きて欲しいという強い願いと、一方ではもう十分長生きしたのだという思いもあって、「お父さん、頑張らなくてもいいよ。」と初めて言われていました。前の日の夜は、私が行ったりヘルパーやケアマネジャーが行った時も、武さんはお父さんの足をさすっているのです。何とかこの足のむくみが心臓の方にかえらないかということでずっと中腰のまま足をさすったりされているのを、私たちは見ていました。
前日の夜なのですが、多分今夜がヤマだろうという事を感じ、息をつめて見守られることをお父さんは望んでいないのだろうと思い、ぐっすり休んでいただいて、知らない間に亡くなっていても大往生だと思いますとお話もさせてもらいました。耳は最後まで聞こえているのでお声をかけてあげたらいいと思いますという話をしたのです。
次の日の朝、起きられて息が危ないという時に、お父さんに感謝の言葉を武さん、妹さん、お孫さんたちも言って、駆けつけられない人達は、電話でおじいちゃんに感謝の言葉を全員が述べ終わった瞬間に亡くなられました。本当に感動的な最期だったと思いました。また、お通夜とご葬儀に行きましたが、ご縁があって武さんから弔辞の依頼がありました。医療従事者として弔辞を述べるということは私にとっては初めての体験でした。武さんがご葬儀のときに、文書にしたためてご挨拶をなさったのですが、その中で地域の皆さんに感謝の言葉を述べておられ、つくづく武さんの心の深さを感じ、素晴らしい方だと思いました。
質疑応答
Q.お父さんの状況が悪くなってきている時、戸惑っている中で、安心できたことは何ですか。
A.具体的にどうとは言えないのですが、一緒の気持ちになってくれてはるというのが感じられて、それが一番大きいのだと思います。
Q.大事なフレーズが出てきましたが、どんな感じですか。
A.例えば、おじいちゃんがしんどそうにしていて、自分がさすりたいなと思っていたら、その前に皆さんの手が動いていました。
Q.お父さんの足を一生懸命さすってあげたというのは、介護を始めてからですか。
A.私は元々体が弱い人間だったのです。自分でマッサージをしたりしていました。それをすると気持ちがいい、ただそれだけです。でも正直、自分は出来ていなかったこともあるのではと思っています。マッサージしているとおじいちゃんがそれを撥ね付けて、しかりつけたりしたこともありました。現実はそんなにいいことばかりではありません。病院に何度か行ったのですが、会話の差がものすごく大きかったのです。医療のテクニカル的な善し悪しも大事だと思いますが、それ以上に『どうかしましたか?』という感じが少ないのです。その感じがあるかないかで患者は救われます。最初に菜の花さんに電話を入れたとき、事務局の対応が病院と全然違ったのです。僕が説明をしたのを全部覚えていて、すぐおっしゃったのです。その前は言った話をもう1回聞かれるというのが何回もあって、それだけでも本当に思ってくれているというのをすごく感じました。
私のところは自分の所で商売をしていましたから、僕がサラリーマンをしていたらとても出来なかったと本当に思っています。おやじと僕の関係も、長男だから面倒を見ないといけないというのではなくて、ずっと居てたからです。もう少し自分が心を砕いていたらあんなことが出来た、こんなことが出来たというのがあるのです。僕のことをよく知っている友達にこの話をしたら、「お前の所は、入り口が違うから、出口が違うんや。」と見事に僕のことを言ってくれました。色んな意味で違っていたのです。
Q.お家で看取ろうと思ったのは、お父さんが家に居たいといわれたのですか。
血液検査の結果が徐々に悪くなっていたのですが、脱水症状をおこしたりして入院をしたり、圧迫骨折もあったので生活のリズムが狂ってしまっていたので、なるべく外に連れて出るようにしたのですが、病院では血液検査の結果が悪いだけで、調べてもはっきりと癌もあるわけではないという感じでした。明確に何かあれば又違ったかもしれません。振り返っても成り行きでとしかいいようがありません。