初めての検診
夫は40歳になり初めて検診を受けました。それまでは風邪もひかないくらい元気な人だったこともあり、病院に行くこともありませんでした。その初めて受けた検診で肺ガンということがわかりました。出会った当初からもし自分達が大きな病気になった際には隠さず必ず打ち明けようと約束していたので最初から同席し、お医者さんから告知していただくことができました。そういうガンとの付き合いが夫40歳の時に始まりました。診断では早期発見ということでT期だったのですが、手術の結果はリンパに米粒大のガン細胞が転移しており、進行している状態でした。結果ステージV期のBということでした。すごくショックでしたが、子どもたち3人(当時小学3年生の男の子、6歳の男の子、4歳の女の子)にガンということをきっちり伝えました。一番つらく伝えにくかったのが北海道の小樽に住む夫の両親でした。ただでさえ遠く離れた所に住む息子がガンだと聞いて心配しない親はいないと思います。
それ以上に言いづらい理由が、夫には姉が一人いたのですが、19歳の頃に事故で亡くなっていたのです。電話では伝えられないと思い、小樽まで行き、自分で受けた検診でガンだということを伝えました。その際、義理の母が「人生っていうのは本当に色々あるからね。良いことも悪いことも急にやってくるよね。先の事はわからない。色々あるから人生だね。これから順子さんが一番大変だと思うけど息子のこと頼むね。」と言ってくれました。普通だったら誰かのせいにすると楽なのに、私のことを一切責めることもなく「息子のこと頼むね」と言ってくれたことを心の奥で受け止めさせていただきました。
ガンと聞いたときはショックだったのですが、ガンという山を二人で乗り越えようとした手術の後に、もっと大きな山が私達の前に立ちはだかるような気がしてそのことを考えた時の方がつらかったです。
先生は手術の結果を夫には伝えず、念のためにと言い抗ガン剤をしましょうと言ってくれたのですが、誤魔化しのきく相手ではないので、夫の体力が戻った時に私から手術の結果を説明するのでしばらくの間待ってもらいませんかと言いました。先生は私の望みを聞いて下さいました。
手術の日から1週間、10日とあっという間に日にちが過ぎて行きました。その時期、海南市から和歌山市内の病院まで通う車の中ではポロポロ泣いて、病院へ着くとヘラヘラ笑い、また帰りの車の中で泣き、自宅に着き子ども達の前ではまた元気にやっていました。その頃、私の落ち着ける場所はトイレの中と車の中だけでした。泣くことで心を楽にしていました。
告知
とうとう夫に手術の結果を伝える日が来るのですが、なかなか言い出せないのです。まして、術後で熱が出ている夫に対して、「手術の結果悪かったの。」とはなかなか言えないです。しかも心配なのは夫の体はもちろんなのですが、夫の心がその現実に耐えられるかどうかでした。病室で言うと泣きたくても泣けないし、文句言いたくても、バンバン叩きたくても叩けない。もともと温厚な人だけどきっと感情は出したいだろうと思い、病院の裏の公園に連れ出しました。
ちょうど4月の初めで桜が満開でとてもきれいでした。ベンチに二人座るのですが、なかなか言い出せないのです。そしたら夫はお世話になった人にお酒ご馳走しようとかあの人には御飯に連れて行こうとか楽しい話ばかりするのです。今言わなければと思うのですが言葉が出ません。心の中で手を合わせ、満開の桜に手を貸してと頼みました。すると目に見えない力で言うことができました。夫の第一声が心配でしたが、「そうか。お前、よう言わんかってしんどかったやろ。」と言ってくれたのです。その時に、「この人とずっとパートナーでおれて良かったな。」と思いました。結婚した当初は仲良しでも長年暮らしていく中で離婚しようか、別居しようかと思う時期もありました。そんな時期を乗り越えやっと夫婦が仲良くなったときに受けた検診がガンだったのです。だから夫から「お前しんどかったやろ。」と言われたときには、本当にこの人のパートナーで良かったと心から思いました。
ガンとの共存
結果的に夫は抗ガン剤はやらずに、生活の中に子ども達と暮らしながら仕事も続け、最期までガンと共に生きるということを選びました。だから時々ガンに向かって言っておりました。「お前はな、俺が死んだらお前も死ぬんやぞ。だからえぇ付き合いしようや。カツカツのとこで俺を生かしてくれや。」と声に出して話しかけていました。そうやって抗ガン剤もせず、自宅に戻って好きなお酒もかなり控え、朝早く起き子ども達が学校へ行く前に近くの熊野古道に登ったり、海を見に行ったり健康的な生活をしていました。
でも体はドンドン、ガンに侵されていき、手術を受けた年の暮れにガンの数値(CEA)がグンと上がりました。その時は、夫が病院で聞いて来て私に伝えてくれました。夫はガンとわかった時も手術の結果が悪かった時も一回も涙は流しませんでしたが、その数値が上がった時に、「頼むから小樽の両親にだけは言わんといてくれ。」と夫が下を向き、静かに涙を流していました。側に居ても何も出来なかったのですが、ただただ夫の横に座って一緒に朝まで泣くだけでした。次の日には仕事に向かいましたが、こんな時でも家族は何もしてあげられない。何をしてあげればいいのだろう。とそんなことばかり思っていました。
余命 ・・・
その年の暮れも過ぎ、次の夏がやって来た頃、周りの人が色々な形で助けてくれました。夫の声が急にかすれてきて、夫は自分の状態がわかっていたのだと思います。検診の日でもないのに病院へ行った所、1週間先に結果がわかりますからと先生に言われ、「旅行に行こう。」と言いはじめました。先生も気を効かせ旅行にいく前に電話を下さり、結果を教えてくれました。「実は、今回ご夫のガンの数値がかなり上がっており、西洋医学ではハッキリ申し上げて何の治療もありません。」と言ってくれました。「もし、何もしなかったらどうなりますか?」と聞きますと少し沈黙があった後で、「何もしなかったら今年中です。」と言われました。「明日から子ども達と旅行に行くので帰って来たら私から夫に伝えますのでそれまで待ってもらえますか?」と言って、冷静に受話器を置きました。そんな冷静な自分のしゃべり方とは裏腹に頭は真っ白でした。今年中という言葉が頭の中でグルグル渦をまいて今が何月なのかがわからず、台所のカレンダーまで走って行って見て、「今が7月やからあと生きても5ヶ月か・・・。」とその時思いました。その時が今まで人生最大のショックでした。
最後の家族旅行
旅行に出かけたのですが、海を見ても空を見ても木を見ても全ての物に今年中という貼り紙がしているようでした。夫は肺が痛いらしく横になって寝ると苦しいため、お布団にもたれて寝ていました。一番下の5歳の娘と夜ふたりっきりでホテルの庭のベンチに座っていると、気がゆるんだこともあり5歳の娘の膝に顔を伏せて泣き始めてしまいました。すると「お母さん泣いているの?」と私の頭をなでてくれました。ありのままの私を受け止めてくれる娘や子ども達にどれだけ癒され、励ましてもらってきたのだろうと思いました。
住み慣れた我が家で
旅行から帰って来て夫と先生と私で今後の話し合いをしました。先生は今の夫の状況を話してくれました。それでも夫は、「やっぱり俺、抗ガン剤やめときます。子ども達と暮らしながら周りの人達と仕事しながら体治して行きたい。」と言いました。自宅に戻って来られたのですが、ありとあらゆる方法をやってもガンはドンドン成長していくみたいで、何の効果もありませんでした。
ある時夫は、自分の気持ちをぶつけてトイレのドアを上から下までボコボコに拳骨で破ったことがあります。その時子ども達は慌てていましたが、「お父さんガンってわかった時からずーと我慢してきたんや。そんな気持ちをドアにぶつけることが出来たんやからよかったのよ。」と言ったこともあります。
もし、皆さんのまわりにガン患者さんや病気で悩んでいる方がいれば、どうぞ気持ちを出させてあげて下さい。泣くことは本当に素晴らしいことです。心がパンパンになって泣くことで心がしぼめば、次ぎのステップへ移って行けるものだと思います。
日に日に夫の体をガンが蝕んでいきました。昨日までは歩けたのに今日は廊下でバターンバターンと倒れてしまう。そんなことが続きました。夫はもともと潜水士だったこともあり、海の中に体をつけるととにかくストレスが消えて楽だったという記憶を持っていたこともあり、お風呂に入りたいということを何回も言いました。痛みも出て来てモルヒネを投与してもらいましたが夫の体には合わなかったようで、上手く使うことができませんでした。何とか痛みを取りたいということでお風呂に入りたいと言いフラフラになりながらお風呂に入ろうとしますが、自分ひとりでは入れませんでした。私一人で入れることが出来ない中、姉と姉の夫と私の3人で夫をお風呂に入れることになりました。子ども達が「お父さん、頑張れ。」と見ている中、姉の夫が夫の体を支え、私が夫の右足と左足を交互に動かし汗だくになりながら風呂場まで歩かせて行きました。夫は歩けることすごく喜んでいました。お風呂に入ってからも「ありがとう。気持ちええ。痛みが和らぐ。」と言ってくれました。
毎晩夫がお布団で寝ていて、その横のホーム炬燵で私は寝ていました。そんな中、私の体力も落ちてくるし寝不足もあり、今日は夫に付き合ったら自分も倒れてしまうという日がありました。夜中、夫が意識朦朧としてしゃべり出しました。「お風呂入りたい。お風呂入りたい。」と言いながら暴れたりもしました。温厚だった夫からは想像できない姿でした。
そんな中、今日はこの人に付き合ったら無理だと思った日に、夫と共通の友人に来てもらい、一晩だけ寝かせてもらうことにしました。ちょっとだけ横にならせてもらおうと時計を見ると夜中の11時でした。ちょっとだけと思っていたのが深い深い眠りに入ってしまいました。夢の中で不思議な夢を見ました。夫が寝ているお布団があってその横の炬燵の中で私が寝ています。起き上がって見ると夫の枕もとに髪の毛の長い真っ白な顔をした女の人が座っていました。夫を見ると体から管がありその先には一升瓶がぶら下がっていました。夢の中で、やっぱり自分の好きな物から栄養を取りながら生きるんだなぁと思っていました。
人間は好きなことしたらええんやなと思っているとその女の人が振り返っって私にとても不思議な声で「岩崎さん、ご主人のことどうされますか?」と聞くのです。もう随分痛みもこらえて頑張ってくれた人ですので、私は「夫ですか?もう本人の好きなようにしてやって下さい。」と言いました。そしたら、その女の人が夫の体から管をスッーと抜きました。抜いたと思ったら、パンパンと誰かに叩かれました。パッと目を覚ますと昨日から泊まってくれている友人が居て、何も言わずに私の顔をのぞき込んでいました。何が起こったのかすぐにわかりました。「けいすけさん死んだんやなぁ?」と言うとウンと頷いてくれました。夫を見ると決して穏やかな死に顔ではありませんでした。喉に痰を詰まらせて天井に目を見開いて亡くなっていました。私には1年8ヶ月頑張ってやってきてくれた夫の安らかな顔に見えました。友人に後で教えてもらったのですが、朝方までついてくれていたのですが、「頼むから寝てくれ。」と夫に言われたそうです。「順ちゃんに頼まれたから寝やん。」というと頼むから寝てくれと言い、最期は笑いながら「ありがとう。」と言ってくれたそうです。あんまり夫が言うのでちょっと横になろうと寝て起きると亡くなっていたそうです。私は最期の言葉が「ありがとう。」と聞いてすごく安心しました。
朝6時頃だったのですが、子ども達にも言わないといけません。子ども達が部屋に来たのですが、お父さんが死んだと聞いてその部屋に入ってこられず、3人固まっているのです。「おいで、おいで。」と呼び、夫のお布団の横に3人が来て、3人共下向いて泣いているのです。何となく嫌やだなととっさに思い、お布団をめくって「お父さん触ってあげよう。お母さん触るよ。」と頭とかを撫でました。最初は泣いていたのに、「お父さんと遊んであげてよ。」と言うと、真中の子だけがお父さんに触ったのです。「冷たい。」と言いました。おでこも冷たい、手も冷たい、でもお腹に触った時、「お腹だけ温かい。お腹だけ生きているみたい。」お兄ちゃんや妹にも「触ってみなよ。」と言い、そしたら泣いていた兄のほうが同じようにおでこから触り始めました。最後には真ん中の子がお父さんに馬乗りになって、「お父さん、鼻毛も出てるわ。」「お父さん、こんな格好で死んでる。」と言いながら遊び始めました。
そのわずか15分ほどの時間があったおかげで少し死を受け止める時間をもらえたのかなって思います。そうやって夫は亡くなっていきました。 私の中では、治療法に関する後悔は全くありません。何の治療法もない中で生きた夫はすごいと思います。
お葬式の朝、御飯を食べていると一番上の当時5年生だった長男がポツンと言いました。「お父さん、僕らに何も言わんと死んでいったけど、いっぱい色んなもん残していってくれたなぁ。」その言葉を聞いた時に、夫の体はなくなるけど、この子達の中で何かの形になって生きて行ってくれるだろう思いました。
私は器も小さな弱い人間なのですが、つい人間として傲慢になってしまいます。病気や死がやってきた時に自分の力の無さを知って、泣いてボロボロになっていく自分を知ったとき、色々な人たちに助けられ、また目には見えない人間の大きな力がある。そんなことを感じさせてもらい、傲慢に肥大していく自分をキュッとしぼませてくれるのが、病気や死じゃないかなって思います。
人は人を助けたいと思うけど、病気や死を迎えた人が体をもって私達に大きなメッセージをくれたり、生きる力をくれたりするのかもしれない。そんな人に助けられているのかもしれません。そう思う何年間でした。

ご家族とともに過ごされた日々を
岩崎順子さんが小冊子に
まとめられておられます。 |