痛みのケア 現在、すぐれたモルヒネ製剤がたくさん出ており、それを増やせば楽勝だという話しもありますがそれは本当でしょうか? 痛みに影響する因子はたくさんあります。増強する因子として、不眠、疲れ、精神的な不安、孤独、社会的な喪失などが重なった時には痛みは増強します。この中で一番大きいのは孤独感だと思います。慢性的な痛みを抱えている人のほとんどは孤独を抱えています。軽くする因子はその反対ということになります。これは専門的なのですが、侵害刺激というのは針で皮膚を刺すとか、膝に炎症が起きるとか、そういうことによって神経細胞が刺激され痛いという感覚が起きます。それが、「痛い、辛い」というところまでには何回かの段階があり、本当に痛くて辛くて眠れない、死んでしまったほうがましだというような苦悩にまで達するには、色々な因子が入り込みます。『侵害刺激の大きさ=苦悩の大きさ』ではないのでしょうか。これがわかったのはベトナム戦争のときで、ケガをしたアメリカ兵が帰還を待つ間、兵士たちは一応にほとんど痛がっていないのです。彼らは帰国できるという喜びが痛みよりずっと上回っていたのです。みんな一刻も早く帰りたいと思いながら戦場で戦っていたのです。 痛みのケアは看護ケアやペインクリニックの専門家でなくても出来ます。むしろ私は何でもモルヒネに頼りすぎていると思います。もっと大事なケアとして寄り添うこと、話しを聴くこと、痛いというところに手を伸ばすこと、あるいは歌を歌って気分転換など、ケアをする側がどうしようとビビッていたら本人はますます不安になります。「大丈夫、大丈夫です。」といいながらさすっていればほとんどの方は、うつらうつらと眠り始めます。 インフォームド・コンセントの話しになりますが、私は本来の意義を忘れて、行き過ぎているのではないかという感じを受けております。 例えば「あなたは胃癌です。あと3ヶ月です。次の方。」とそれほどひどくはないと思いますが、それに近い説明がされていませんか。大事なのは本当に本人が欲しい情報等を正確に伝える、それも不安を与えないで伝えるということです。 「癌告知」という言葉をやめて、「安心のコミュニケーション」というものを作り出していかなくてはいけません。不安を与えて依存させるというのが今までの医療です。「ほっておくとどうなるかわかりませんよ。心配なことがあったらいつでも来てください。」というのを安心言葉として使うのですが、それは実は患者さんにとっては不安を呼び起こすのです。不安を呼び起こし、自分に依存させるという姿勢ではなくて、安心をさせて「大丈夫なんだ。自分でしっかりやっていけば生きていけるのだ。」という自立を促すようなコミュニケーションが必要です。突き放す告知ではなく、包み込む告知が私は新しい成熟したコミュニケーションの段階だと思います。
からだ、こころ、暮らしを支える在宅ケア 全ての要因をふくんだCさん(40歳代 女性) 膵頭部癌で今年の1月8日初診。その10ヶ月前にすい癌の診断を受けて手術をしたのですが、広がり過ぎて手が付けられないということでした。その間の説明は受けていて、自分で丸山ワクチンや気功をしていました。5日前から徐々に食べられなくなり、それと同時にお腹が痛くなりました。紹介で往診をしたところ「痛みが強くて眠れない。助けて早く死なせて!」と必死の訴えで、そこからスタートしました。その中から話しを伺っていくと癌末期の恐怖心と不安が非常に膨れあがっていました。でも、「入院は絶対に嫌、でも独りは怖い。」「死は覚悟していても死に方が分からない。」という相容れない感情の中でもがいていました。また、それをどうしてやることもできないでいる母(70歳代)とのふたり暮らしというお宅でした。 根本には、父の自死という体験がありました。Cさんが20歳代の時に、癌の診断を受けて色々な検査や治療を受けている時に病室から飛び降りてしまったのです。このお父さんが抱えていた恐怖の恐ろしい癌にだけは自分はなりたくないと思っていた癌になってしまったという恐怖心です。お母さんは夫を亡くしたという悲嘆が癒されていない中、一人娘も失おうとしているのです。しかも病院は一番怖い所なのです。何か困ったら入院という逃げ場がないのです。私の方もSOSでちょっとお願いしますという逃げ場がないのです。介護者の方(母)はひとりで、難聴、足腰が悪く、引越したばかりで近隣の付き合いが全くなく、周囲から孤立している状況です。経済的にも恵まれていないという非常に困難なケースでした。1月8日〜4月9日までの91日間で、私が20回、看護師が61回訪問しました。 当初は不安への対処が一番の課題でした。初期の頃は、「痛い、痛い、痛い苦しい、助けて!」と叫び、ベッドの中で起きたり座ったりと不安発作を繰り返し起こし、せん妄のような感じでした。「大丈夫だよ。」ということを伝えるしか方法がなく、「いつでも電話をしてください。何かあったら必ず訪問します。」ということを伝えました。夜中2度緊急往診、これは初期の2週間の間ですが、一度はそのまま泊まりました。このような関わりの中で、徐々に安定していきました。3ヶ月間は医療処置は殆どなく、採血1回、点滴1回、末期に褥瘡処置を数週間、あとは痛み、不安、抑うつ、便秘、発熱などの症状に対する対処療法です。 この大変なケースを乗り越える事ができたのは看護の力だと思います。61回訪問しました。必要なときは1日2回でも3回でも訪問し、行かない日は必ず電話をしました。Cさんに対しては私だけでなく、看護のスタッフも思い入れが深く、何とかこの二人を助けたいという思いが一心にありました。なかでもお母さんに惹かれていくという関係がみられました。お母さんは天真爛漫で思いを全てこちらに出してくれました。笑顔と泣き顔の繰り返しで、笑って泣いて喋ってという感じでした。娘さんに1時間、お母さんに1、2時間を使ってしまうという日々でした。 濃密な関係の中で、さくらの花を届けた3日後でした。3月の中旬から今日か明日かと判断していましたが、それが長引いて、油断していた日曜日の昼に、何となく行って診ようと思って行ったら、お母さんが台所で何かをされていました。「どうですか?」と聞くと『さっきまで上で看ていたのですが、大人しく寝ていました。』といわれ、「じゃあ診てみましょう。」と二人で2階に上がって行ったら、息をしていなかったのです。「あ〜。今日だったんだ。」と思いました。最初お母さんは娘を失うという事で半狂乱の状態でしたが、この3ヶ月間、濃密な介護の日々を送る中で、受け入れができ最後は意外な形でしたが、迎えることができました。