ホスピス

● 黄色の薔薇に囲まれて Vol.4●
―愛する人と別れるとき―

 

 彼女にはまだ「死」の意味さえ分からない小さな子供さんがいたので、母親が泣く姿を 見る子供さんの気持ちを考え夜にお話をしていました。その頃の私は受験勉強中でしたので夜遅くまで起きていましたので丁度良く、彼女もそのほうが自分の想いを言葉にしやすいのでは?と考えてのことでした。
初めのうちは私からの一方的な電話でしたが次第に彼女からの電話が多くなり、お手紙でのやりとりも出来るようになりました。ただ聞くだけのことでしたが、私が資格を取ってからしばらくしてから子供が幼稚園に行くようになり、 だいぶ落ち着いたという連絡を頂きそれが最後になりましたが、今年の夏、紹介してくれた方にお尋ねしたところ元気にしているとのことで安心しました。

 「鬱」の長い2年、無我夢中で過ごした学校の2年でしたが、資格を取得してからが何 か落ち着きませんでした。もともと看護職につくのが目的ではなくポランティアに活かす つもりでしたので何科に勤めたいか?という希望は特にありませんでした。そして、言われるままに外科病棟に勤務することになりましたが、仕事を始めて2ヶ月が過ぎた頃、義父が膀胱がんだと連絡がありました。近くに弟夫婦がいましたが、長男の嫁、主人を在宅 で看取った事、看護婦ということでのお願いでした。
義父も主人と同じく「家で死にたい」 と、だから力を貸して欲しいと言いました。この時もずいぶんと悩みましたが思い切って 仕事を辞め看病させてもらいました。義父はとても喜んでくれましたが、ここでまたもや 問題がおきました。一度家を出た嫁が家に出入りすると周りが何を言うか?とか、いくら 看病しても財産分与はしないからと言われ、情けなく心が痛みました。結局、訪問回数を 減らし、一切の権利を放棄しますと一筆を書いて介護を続けました。

  入院中は寝たままでしたので筋カが低下し、歩くのもおぼつかない状態でしたが家に帰 るとそれだけで気カが満ち食欲も増し、足取りもしっかりしてきました。慣れ親しんだ家 で死にたいと希望する人にとって、在宅での生活の意表は大きなものだとつくづく感じました。

 養父が亡くなる日のお昼に、「自分の話を録音したいから」と、私が貸していたカセット を返すから取りに来てくれと元気な声で電話がありました。パートの仕事をしていたの で家に行ったのがタ方になってしまいましたが、その時の養父は、もう声をかけても、痛み 刺激を与えても反応がなく瞳孔反射も弱くなっていた状態でした。母と叔母は異常に気 づかずテレビを見ながら食事をしていたのですぐに主治医と兄弟に連絡をとりましたが、 夜遅くに息を引き取りました。
残念なことにこの時も、死装束はどうしよう!写真がない! と慌てる姿を見てますます心は痛むぱかりで、人が信じられなくなりました。お葬式には 私が出た方がいいとか、イヤでないほうがいいとか……。でも、義父も望んだとおり家で 最期を迎えられたのですから、それで良かったのだと思っています。

 十人の人がいれば考えも十通りあって、その全てを受け入れることは難しいことですが、 すこしでも理解しようとする気持ちがあればいいのでは?と最近になって思えるようにな りました。

  そんなこんなの6年で看護婦とは名ぱかりで実務経験が伴っていないせいか?適応性が 無いのか?「看護婦さん」と呼ばれると誰のこと?とドキッとしてしまいます。一人なのだから安定した企業の診療所に勤めたり、養父の死をきっかけに老人ホームに勤めたり、 職場を変わるたびに挫折感を感じました。
主人がいなくなってから生活のハリがなくなり、 仕事・ポランティアに―生懸命になりすぎて、仕事がポランティアか?ポランティアが仕 事か?分からなくなりました。今でも周期的に落ち込みますが、それなりに乗り越えてき ました。
しかし、今年の夏は限界に近いものを感じ生まれて初めて心療内科の先生に相談 しました。

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