ホスピス

● 黄色の薔薇に囲まれて Vol.3 ●

―愛する人と別れるとき―


  <在宅での聞病>

  3月7日に家に帰りましたが、この日からべッド上での生活が始まりました。
今まで自分のことは自分でしていた人がそう決めたときには、さぞ辛かっただろうと思います。このころの主人は介助なしでは歩くことができない状態でした。家に帰ると食欲も少しはすすむが、排泄に対する不安が大きく自分でコントロ―ルできなくなるのでは?と1日1回心ず排便がないとひどくイラついていました。 IVH挿入のため先生が来て下さった時のことです。心配する家族が見守るなか準備ができ、点滴を始めよううとしたとき、主人が私にさせるようにと先生にお願いしました。家族は驚きを隠せず「エッ?」と声をあげ、部屋の空気が不安でいっぱいになるのが伝わってきました。

 アンプルを切ると指まで切る……これがけっこう痛い!すかさず先生が酒精綿を巻いて切るように教えてくれる。薬液を注射器に吸引し点滴に入れるのだが、空気が入りすぎて注射器の内筒が飛び出したりと泣きたい気持ちになる。家族は先生にしてもらったら?と動揺し、先生が「代わりましょうか」と言うと、「直子にさせる!これから直子にしてもらわんとアカンのやから!」と大きな声で厳しい言葉がとぶ。  
  なんとか無事に済むと「はじめはゆっくりでいい。ちゃんと覚えながらしたらええんや!本当に直子がいてくれて良かった。点滴や薬もみんな任せられる。」と主人に言われたことが嬉しかったのを覚えています。それと同時に、この人を支えるのは私しかいないんだ!と強く感じ、家族に心を開けない主人と受け入れられない家族の思いに悲しくなりました。

<最期まで自分らしく生きる>

  在宅での生活を始めるようになって「死」を目前にしているとは思えないほど穏やかになりました。毎日、笑いが絶えないのです。とても不思議な時間でした。 「受容」とはこういうことか?と教えられた気がします。私の記憶では、告知されてから在宅で闘病するまでの8ケ月より、在宅での2ケ月の方がはるかに長く感じていました。それだけ充実した意味のある時間だったのでしょう。  今の自分を受け人れながらも病気の治療に対して決して諦めることはしませんでした。がん治療の専門書を読んでは、これはどうか?あれはどうか?自分が納得して良いと考えたことは、メリットとデメリットを知るために主治医に電話相談し積極的に取り入れました。私も、モルヒネの作用と副作用、安楽な体位と方法、腹痛・下痢・下血の対応、経口摂取が出来なくなったとき、尿が出にくくなった時、幻覚症状が出たときの対応等々、たくさんのことを先生に質問しましたが、これはあらかじめきちんとした説明を受けていたから出来たことだと思います。先生はいつも希望と、期待した結果が出なくてもそれが間違った選択でなかったと思えるための逃げ道を用意して下さいました。

 主人は全てを私にゆだねましたが、日常生活・医療・全てにおいて自己決定をするのは主人です。私はそれらのことが叶うように努力するだけでした。友人も大きな支えになってくれました。「何か喰いたい物は?」と電話をくれるとその夜は即、パーティーです。お寿司やら中華やら、ほんの少ししか食べられませんでしたが、ビデオ撮影をしながら(主人の希望で)ワイワイガヤガヤと賑やかに過ごしました。私も友人もビデオ撮影に初めは戸惑いましたが、生きた証を残したいという主人の願いからで、涙あり笑いありの記録になりました。
 
  私達の生活は昼夜逆転していました。というのは、主人は夜が怖かったのです。夜、暗くなってから寝るとそのまま2度と目が覚めなくなるみたいと言って、白々と夜が明ける頃にウツウツと眠るのです。そして、お昼すぎになると起き絵を描いたり、手紙を書いたりと活動を始めるのですが、困ったことがありました。それは、主人のリクエストに応えるため私が外出しなければならない時です。あじの刺身が食べたいとか、肉まんが食べたいlとか、お薬をもらいに行く、銀行に行く等々……。少しの時間で済むことですが頼める人がいないのです。「あんたに行ってもらわな困る」と言いながら、いざ出掛けようとするものなら「あれして!」「これして!」「―人は淋しいナ」と言い、なかなか出掛けることができませんでした。仕方がないからと出掛け帰ってくると「ただいま!」の声より「おかえり!」の声の方が早く、主人を―人にすることはできないと感じ、主人も私を必要としているのが良く分かりました。  

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