ホスピス
 

● パパらんの贈りもの ●


 私が病院で泣いた思い出と言えば、5月の連休のころ、2日間にわたって姫路赤十字病院で行われるナイチンゲ−ルを記念してのナイチンゲール祭の時のことです。職場を7時頃出た私が病院に着いた頃はもう暗くなりかけていました。
夫の姿がないのです。同室の方は、さっき廊下で見かけたといわれるのです。ですが広い病院内をあちこち捜し回っても夫の姿はないのです。そのうちすっかり暗くなりました。姫路赤十字病院は周囲に高い病棟が建っていて、その中央部分の二階建の建物も屋上は、回りから見るとまるで広い中庭でもあるかのようになっています。やがてこ階の屋上側のドアが開き、そこから手にペンライトをかざした看護学校の生徒さんや、若いナースの方々が次々と出て来られました。おそらくナイチンゲ−ル祭のクライマックスなのでしょう。

やがてぺンライトを揺らしながら、コ一ラスが始まりました。それでも夫は見つかりません。どこへ行ったのだろうと、うろうろする私に、同室の方が、
  「あっ、あそこにおられる。」と言って病棟の屋上を指さされるのです。
なんと夫は5階建の病棟の暗い屋上に立ち給水塔を背に、広場でコーラスをされているナースの歌に合わせて指揮をしているのです。夫は音楽が大好きでした。演奏会などに行った時もよく音楽に合わせて手を動かし、指揮を始めるので、私などよくその手を押さえたものです。暗くて夫の顔など見えません。でも私にはわかるのです。目を閉じ、微笑みを浮かべ、歌声に浸りながら指揮している夫の姿がすぐそこにあるかのように、手にとるようにわかるのです。思わず出てくる涙でした。大勢の方がおられるので拭うことも出来ず、流れるままにしました。そのとき丁度廊下を通りかかられた若い主治医と目が合ってしまいました。主治医は私を呼び止め、
 「おつらいでしょうが、これからが大変なのです。ご家族の方が苦しんだり、無理をして倒れられるということが無いように、ご自身の体に気をつけてどうそ時間を大切になさって下さい。」と慰めの言葉をかけて下さいました。
 夫にはがんが転移していることをまだ伝えてはいませんでした。何も知らない夫はやがて病室に戻って来ました。指揮していたのを見たことを伝えると、「僕、給水塔の陰にかくれてたのに。」と不思議そうに言うのです。
 屋上に上がれば給水塔の陰でも下から見ればよく見えます。頭隠して尻隠さず。夫には、そういう少し抜けたようなところがありました。

 告知の件についてですが、これまでがんの告知についてはその是非も含めて随分論じられてきました。私はその善し悪しの判断はできません。ケ−スバイケ−スとでも言うか、ひとことで是非は決められないと思うのです。ただわが家の結論は、夫に知らせたということです。しかしその結論にたどりつくまでには、本当に悩みました。まず、主治医より手術前の説明でがんの肝臓への転移を告げられた後、夫への告知をどうするのかを尋ねられました。医師の立場からすると、患者自身ががんを知っている方が治療が効果的らしい のです。そしてその場では、子供と3人で話し合って、医師から告げてもらうことにしたのです。私自身もし自分ががんだったとしたら教えてほいのです。いいえ、教えてもらわなくては困るのです。しかし自宅に帰り夫の姉妹達、そしてまた私の兄弟に話すと、『伝えてしまったらもう取り消せない、よく考えてからにした方がいいのでは?」と言われました。むろん私たちが決めることに対して絶対に告知してはいけないとは誰一人として言いませんでした。私としてもいくら長年夫婦として生活してきたからと言って、夫の心の中までは推し量るよしもありません。がんが自分の命を奪うかもしれないことを告げられた時の夫が、それをどう受け止めるかは想像出来ませんでした。そして結果は、やはり知らせないでほしいと医師に伝えたのです。医師は、
「分かりました。それでは肝血腫と言うことで、ご主人には肝臓の治療が必要だというふうにしてお伝えします。」とおっしゃいました。

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