ホスピス
 

● パパらんの贈りもの ●


不思議と涙は出ませんでした。どうしても自分の身近に起きていることだとは思えなかったのです。娘も息子も無言でした。主治医のもとを辞して夫の待つ病室へ向かう足取りは、重いというより、まるで宙を歩いているようだったような気がします。
  「どうやった? 手術の説明?」との夫の問いに
  「うん、そうよ一。」と短く答えることしか出来なかったように思います。

 こんなにも元気そうな人がここにいるのに何で…?どうしても真実を受け入れることは出来ませんでした。夫の勤める小学校に、診断結果を報告に行かなけれぱならないのですが、夫の前でこそ平静さを保っている私も子供たちの目には不安気にうつるらしく、子供たちも学校までついてくるというのです。恐らく車で行く私に、事故でも起こされたら大変だと思ったのでしょう。
 校長に結果を伝える時、初めて涙が出そうになり、こらえるのに必死でした。校長もこの年に転勤してこられたぱかりの方でしたが、何と偶然にもこの方は、夫が前任校時代に事故を起こして長期入院した時、教頭として同じ学校に勤めておられたのです。巡り合わせとは言え、何とも複雑な思いを持ちました。
「元気になって早く戻ってきて下さい。」という言葉を用意されていたであろう校長も予想もしておられなかったであろう報告に驚かれたご様子でした。

 娘は、喜びの大学生活のスタ一トを切ったはずでした。しかし、入学も目前に父親ががんであると知らされ、おまけに入学式を目前に控えた時に余命6ヶ月を告げられたのです。
もともと口数は少なく、何事も、もくもくと受け止める子です。そんな娘の胸中を思うと、いとおしく又いじらしくなりました。折から、春真っ盛りの4月です。病院の庭や周囲に植えられている桜の木はどれも満開でした。その桜の木を見上げながら、娘は私にこう言いました。
  「お母さん、お父さん桜見るの今年で最後になるのかな一。」
 私はとっさにはどう答えていいのか分かりませんでしたが、
  「そうかもしれないね一。」と返事しました。
 しかし心の中ではそんなことはないと打ち消していました。娘もきっと同じ思いだったでしょう。

 翌日、夫の見舞いの帰りに娘は病院の庭に落ちていた小さな小さな満開の桜の枝を拾い、それを差し出しました。すぐに娘の心が分かった私は、病院の前にある自動販売機に走り、ファイブミニを買い、あわてて飲んだ後、小瓶に桜の小枝をさし、夫の病室へ持って行きました。何も知らない夫は、相変わらず幼稚なことをする私だと笑って見ていました。
 入学式の翌日が夫の手術の日となっていたため、入学式の当日は、朝早く夫を見舞い入学式を済ませると早々と夫のもとへ帰ってきました。
 「お母さん。みんな一人かと思ってたら、結構親が付いて来てたよ。着物なんか着て来てる子もいたし、親戚引き連れて記念写真なんか撮ったりしてたわ。」と、それでも楽しく入学式の風景など話してくれました。

 大腸の手術は無事済み、術後、切り取った部分を見せていただきました。夫の場合、がんは腸壁の表面に出来たのではなく、腸壁の中にもぐり込むようにしてできていました。がんは腸の外壁を破り、まるで血の塊が崩れたように鮮やかな赤色で、ドローッとしていました。しかし内壁部分はちょうどめばちこが膨れているようでしかなかったのです。外壁を破ったがんは、リンパ管を通り肝臓へと転移していったのです。

 娘は新学期が始まってからも、金曜日に授業をすませてからすぐ帰省し、土曜日、日曜日を父親のもとで過ごし、月曜日の朝、新幹線で学校へ行くということが度々ありました。
 手術後順調に回復していった夫は、やがて点滴のスタンドを持って病院内を散歩するようになりました。院内には、長期にわたり入院生活を送っている子供たちのために、小中学校の分校が設けられていました。もとより子供好きの夫のことです。まるで他校の授業参観でもするかのようにその授業風景を見に行ったり、入院中にできた友人の元を訪れたり、と結構退屈することもなく入院生活を送っていたようです。見舞いに訪れて下さった方も元気そうな夫の姿に安心した様子で帰って行かれました。
 千分の一の確率でも助かる人の中に入れれぱ、という私の願いを口にしたとき、若い医師はその望みなど万に一つもないことを、やさしい口調、柔らかな物腰、そして目には優しさを浮かべながら伝えてくださいました。不思議なものです。人間って強いのでしょうか、あんな時は涙など出ないのです。

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