●8月9日 日曜日 | |
4時30分起床。快晴。外は静かでバブーンの朝のランニングはまだだ。朝日が出てくるのを待って外に出てみる。今朝もすがすがしいアフリカン モーニングである。朝食は恒例のオムレツほかいつもと変わらずおいしい。エンブまでは約4時間のドライブである。サンブルロッジのゲートをくぐって出かける。いつの日かまた家族を連れて来たいものだ。功太郎、優斗の孫はなんとしても連れて来たいものだ。 この自然の中で人間として、男として、女として、社会人として、親として、子供として、なにが大切なのかなにを求めようとしているのか、なにを与えようとしているのか、なにが生きるということなのか一緒に考えてみたい。
世代が違っても、そのとき、その場所、その人達とともにそのとき何が各自にとってもっとも切実なのか、話してみたい。次代に伝えるってことは伝えたい世代が思うほどに意味がないことが多いのは歴史が示している。にもかかわらずなにかを伝えたい。それがじいさんのわがままなのだろう。ようは活動しろよということか。知性も、理性も、運動能力も、人間としての魅力も、指導性も、人としてのやさしさも全ておまえ達にはある。潜在的にある。それを引き出し、生かすのはおまえ達の責任だ。もしも、自分に自信が持てなくなったり、進む方向がわからなくなったり、人を愛せなくなったりしたときはここに戻ればいい。そういう所なのだと教えておきたい。
そんな思いでゲートをくぐり一路エンブに向かう。イシオロからメルー道路に入る。ニエリへの道と異なり、おだやかなブッシュの風景から、緑多い、水の豊富な、比較的豊かな町を通りすぎる。メルーはメルー族の中心地であるが彼らはナイロビに早くから出稼ぎにいっている。
どうしてそんなに純粋で、本当の欲がなく、平凡に毎日が過ごせるの? 愛しているよそんなケニヤンを。日本人としての小生に持ちたくても持ち得なかった人としての真の姿を持つあなた達を。そしてその違いを越えて小生に病める人に手を添えることを許し、その過程で人として、医師としてのあるべき姿を教えてくれたあなた達に心から御礼を言いたい。そして小生に関わる多くの人達に同じような教えを与えてやってほしい、いつまでも。
メルーからチュカを経て、昼前にエンブに入る。もう涙が出て困る。北からは入ってきたので、ケニヤでも名門のカンガルー高等学校を左に見て、ジャカランダの並木道を通り、アイザックウオルトンインに至る道は毎日のように家族で歩いた道である。晴れていれば右手にケニヤ山を眺めることが出来るのだが。妻と子供達、孫達でここを歩ければなんて幸せなことだろう。アイザックウオルトンインは宿泊施設とプールを新しくした以外はあまり変わっていない。もっとも26年前に10シリング(=430円)で食べていた夕食は、味は多少落ちているかなと思ったが、1シリング2円とすれば今でも400円で変わりがない。ELANDの肉をグラーシュ様に煮込んだ料理は栄養上も良好である。
手入れの行き届いた芝生の庭の白椅子に座っていると、あの当時のサッカー仲間の顔が浮かんでくる。よく飲んだものだ。連中は毎月のパーティでは当時からマリワナを吸うとったよ。これは日本人の吸うタバコより健康にいいんだなんて医師を前にずうずうしくも語っていた。しかし、いい人達だった。みんな素直で、ケニヤンが好きだった。食後出発前に、以前住んでいた家にでかける。ありました。庭にはマンションが建って、狭くなっているが家は変わっていない。毎日ここから道をはさんだ病院へ出勤していたのだ。
病院は建物が3−4戸増えた以外変わっていない。入り口の売店でだれか26年前に勤めていたころに働いていた人はいないかとたずねる。すると一人の女性が私はそのころ給食のコックだったと言う。ジャパニーズのダキターリか、覚えているよ、なつかしいね、と言われると思わず抱擁する。外来棟は相変わらず薄暗い廊下で、土の香りいっぱいである。手術室の外見は全く同じで恐らく日本からの手術台は今もあるのだろう。檻のような精神科病棟、暗くてうっとうしい結核病棟、そこは病院職員が喀血の患者を血まみれになって処置した小生を勇気のある医師として認めてくれた記念すべき病棟だったが、いまはもうなくなっている。なんせ、結核に対して免疫があるなんて知らないものだからひたすら敬意を表してくれたのである。
産科病棟は場所が変わったとのこと。20数例の帝王切開を思い出す。やれば出来ると言うよりやらにゃきゃ母子ともに死ぬんだという切迫感から、住友病院で見学したのを思い出し、妻に教科書を紐解いてもらって、恐る恐る実施した第一例は永久に忘れられない。よくぞうまくいったものだ。その後は自信を持って行い得た。当時、麻酔をかけてくれたクリニカルアシスタントのおじさんはもう亡くなったかしら。右足が英国との戦いで負傷して不自由だったマウマウ生き残りの通訳のおじさんももうこの世にはいないだろう。みんないい人達だった。毎日のようにいかにしてケニヤが独立したのかを話してくれたものだ。
日本人は日露戦争で白人に勝っているから好きなんだと言われたのにはこちらが驚かされた。日本人は黄色人種と自らも認めているが、その有色人種という意味が世界的にはどういう評価を得ているかなんてあまり気にしていない。むしろ他の有色人種たちのほうが気を使ってくれるほどだ。能天気なところは島国根性のせいかも。病院に別れを告げてエンブを出る。町の入り口にあった市場のたつ広場は変わらない。町の店はASIANからケニヤンに持ち主が変わっている。そうか少しはがんばってきたのだ。ケースでウイスキーを買った酒屋もきれいなバーと並んで今もある。
そうそう、あの角のガソリンスタンド、じゃない、ペトロレウムステ−ションの周りには昼間からムラティナの密造酒を飲んで立てなくなった人達がたむろしていたものだ。ついさっき抗生物質をあげたオニイチャンがバスが来ると、窓によって薬を売っているなんて光景をみると悲しくなったものだ。まあ、それも初めだけですぐに慣れて一日分しか投与しない様にし、何事も貧困と無知の結果だと自らの不明を恥じた。エンブを出て、それまでにもあった検問が頻繁になる。例のテロ事件のせいだ。
ニエリへの分岐点のTHIKAを通りすぎると風景も都市近郊といった風情である。昔はこのあたりまで走ってくると、ナイロビのCity Marketの話しが始まったものだ。なんの海産物を買うか、肉の加工品は、などと食欲にまかせて期待に胸、いや腹がなったのがなつかしい。その市場も今ではとても自分達だけで出かけるほど安全なところではなくなっていたのは残念である。ナイロビに入るところはもっとも大きなRoundabout (環状交叉道路) で直径100mはあるだろう。小さな川を渡ったところにある。この川を渡るたびに、久しぶりに都会に出てきた若い夫婦はそれだけでなんとなくうれしくなり、息子のことなど無視して、New Stanley Hotel のオープンティールームでお茶でも飲むかな?なんていい思い出である。モイ道路に入ってすぐにナイロビサファリクラブが現れる。5−6日間のサファリはこれで終わる。
皆さん大過なく楽しんでいただいたことと思う。昨年お越しの方はいっそう充実していたとのことで何よりである。ケニヤのサファリの楽しみ方はまだまだいろんなパターンがあり、今後も工夫してみる積もりだ。本日はゆっくりとお風呂に入っていただいて夜は八時よりサファリ クラブという紛らわしい名前の韓国人経営のレストランで和風鉄板焼き+すしを楽しんでいただく予定である。お世話になった菊本さん、荻の迫さん、JICAの医師二人を招待している。食事は久しぶりの和風味付けで皆さんほっとされたことだろう。酒もどんどん進む。明日は最後の日で、午前中にストリートチルドレンの検診を予定している。エイズの検査は前田先生、吉田婦長等のご努力で可能とのこと。あまり飲み過ぎずにホテルに戻りベッドに入る。それにしてもエンブに立ち寄れて幸せだった。皆さんには無理にご一緒して頂き申し訳なかったが少しだけのわがままをおゆるし頂きたい。これを契機にこれからの人生の有り様についてじっくり考えてみようと思いながら眠る
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