ホスピス

● 難病の中、見つめ続けた生と死 ●

 最後に もう―度蟹を食べておきたいと希望し、それが叶えられたのです。病院に帰り、べッドに 横になられて、「あ―よかった、おいしかった。」と微笑んでおられたNさんの姿は、今も鮮明に残っています。
  11月に入ると、ますます言葉も不自由になっていかれました。私 たちも、―度で理解できないときも出てきました。ごめんなさいねと断って間き返すことも度々ありました。Nさんは悲しそうでした。12月に入ると、食べることが出来なくな り、栄養は静脈栄養に変わっていきました。

 年が明け、1月に入ると呼吸にも困難が出始めました。酸素吸入も始まり、訪ねるたび苦しそうに息をしているNさんの姿を見ることは、とてもつらいものでした。ついに気管切開が施され、Nさんとの会話は、文字盤を使っての会話になりました。時間はかかるものの、会話が通じた時は目でうなずかれ、微笑み合うことで、確認しあいました。しかし訪ねるたびに弱っていかれる様子に、もう残された時間が少ないことは感じられました。 そばて看病にあたられているご主人の顔にも日増しに疲労が表れてきました。 このままではご主人が倒れてしまうのではないだろうかとも思いました。

 亡くなられるその日の朝見舞った時、母親の危篤を知り、横浜から帰ってこられていた息子さんは私にこう言われました。 「ボランティアの方たちは、僕たちの出来ないことをしてくださいました。本当にありがとうございました。母はとても喜んでいました。母がこのような日を送れたことは、皆さんのお陰です。」   そして、少し目を開けて意識がないように眠っておられるNさんを見つめながら、 「母はこのように今意識がないように見えますが、母には聞こえています。どうぞ声を かけてやってください」 「そしてお忙しい皆さんに厚かましいお願いですが、これからももし許される時間があ るなら3分でも5分でもいいから母を訪ねてやってください。」 とも言われました。この言葉は、息子さんの心から出た言葉であったのでしょう。意識が ないような様子でぺッドに眠ったままのNさんの耳には、この息子さんの叫びがきっと 届いていたと思います。

 この日のタ方、帰りたかったご自宅に帰ることなく、ご家族や親戚に見守られながら、 病室の四分の一というせまい空間でNさんは生涯を閉じられました。「せめて息子が就職するのを見届けたい。」と語っておられたNさん、口惜しかったことでしょう。

 横浜で大学生活を送っておられる息子さんが5月に始まる教育実習で、姫路に戻られ、 Nさんのそばでしばらく滞在されるという日を待つことなく、4月17日、静かに生涯を閉じられました。苦しみから解き放たれたNさんの顔はとても美しく安らかでした。 苦しむことなく、静かに旅立たれたというご家族の言葉に、―緒にポランティアをさせて いただいていた友人の―人はそっとこうつぷやきました。  
  「それがあたりまえやわ、もう十分苦しまれたんや。あれだけ苦しまれて自分の病気を受け止めてあんなに優しくなられたんやから、死ぬときまで苦しんだらあかん。苦しまないで旅立たれて本当によかった」 友人の言葉は胸にしみました。本当にそのとおりです。心を涙でいっぱいにして私たちは静かにNさんをお送りしました。 Nさんとは1年間程のお付き合いでした。その間のことは、この短くつたない文章で、 とても書きつくせるものではありません。Nさんの生きてこられた苦しみ、ご家族の苦しみと悲しみなどの心の葛藤、そして闘病の大変さなどは計りしれません。難病と向き台うことの難しさ、本人も含め、携わった人々との心の交流、また医療のことなど私が知り得 たことはたくさんありました。ボランティアにかかわった私たちに多くのことを教えてくださったNさんに心から感謝するとともにご冥福をお折りします。
  「Nさん、あなたの生きざまの見事さはいつまでも輝き続けます。ありがとうNさん。 本当におつかれさまでした。どうぞゆっくりお休みください。」

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