筋萎縮性側策硬化症という残酷とも言える難病に侵され、病院で生活を送っておられる Nさんの元を私が訪れるようになったのは、平成10年4月からです。Nさんにこの症状
が現れ始めたのは平成8年春のころからでした。病名不明のまま、入退院を繰り返され、萎縮性側策硬化症と判明してからは、可能な限り自宅での療養生活を過ごされました。
しかし自宅での療養が出来なくなり、平成9年の暮れから入院生活を送るようになられました。
私がNさんを訪ねる前から、Nさんのことについては、ポランティアグループのミー ティング等ですでに聞いて知っていましたが、この方への評価はかなり厳しいものでした。
気難しく、短気であり感情をすぐぶつけてしまう。また、床に髪の毛―本落ちていることも許されないほどの潔癖な性格を持っている。そして、病気の受容ができていないとも聞
いていました。Nさんの病気に対して家族の理解が足りない、などボランティアを始めるのに不安を感じるには十分でした。私に務まるだろうか、受け入れてもらえないのではないのだろうか、など不安を抱えながら、初めてNさんを訪ねた病室で待っていたのは、
Nさんの笑顔でした、結局私の不安は肌杞憂でしかありませんでした。
病状は確かにNさんを苦しませ、眉間にしわをよせる人にしていました。進行してい く病状がNさんの心を乱していました。体を動かす機能を奪いつつ確実に死に向かって進む病気であることを宣告され、現実に進行していく病状の中にあって平然としていることなどできなくて当然だったでしょう。Nさんを難しい人にしていたのは筋萎縮性側策硬化症という病気でした。彼女は全く普通の人でした。かまえていた私がばかばかしくすら
なりました。
波長が合ったといったらいいのでしょうか、私はすぐNさんとお友達になりました。 Nさんは私を快く受け入れてくれました。「ありがとう」「ごめんなさい」を繰り返す
Nさんに、私は「大好きなお友達やから、喜んで来てるんよ。」「無理してへんから、気にせんとってよ。」と返しました。
食事すら人の手を借りなければ出来なくなっているNさんの「人に迷惑をかけている。」 という心を、少しでも軽くしてあげたいという気持ちも働いたことには違いありませんが、
Nさんを訪ねることで私が得ることはたくさんありました。ささいなことで喜んでくださ るNさんの笑顔はすてきでした。しかし、うかがいだした初めのころは、行く度に涙を流されました。悔しい思いを話しながら泣かれます。頬に蚊がとまってもたたくことすら
出来ない、また涙をふくことが出来ないから、泣くのを我慢しているとも言われます。私はただ、「今はどうぞ泣いてください、私が涙をふきます。思いきり涙を流してください。
でも私が帰るまでに涙を流しきってくださいね。」と言うしかありませんでした。でもいつのころからか、うかがうたびに流しておられた涙が、「私ほんまはゲラなんや。」と、うかがうたびの笑いへと変わっていきました。このころからNさんはどんどん明るくなっていかれました。「死にたい」とばかり考えておられたのに、生きることを受け入れられ
るようになっておられました。