ホスピス
 

● パパらんの贈りもの ●


  私は、昨年6月に岐阜県で行われた日本ホスピス・任宅ケア研究会の集まりに参加しました。長良川をはさんで、金華山が望める長良川国際会議場には医療関係者を含め、実に二千人を越える人々が参加し、広い会議場は人であふれていました。全国から集まって来られたこれからの医療と真剣に立ち向かっておられる人々の意気込みは会場いっぱいに広がっていました。

メインホ―ルを第一会場とし、2階、3階にそれぞれもうけられた第6会場までどの会場に足を踏み入れても熱心に聞き入っている人々の前で、熱にあふれた実践の報告・討論が行われていました。初めて参加した私などその迫力に圧倒されながらもあれもこれもと聞きたい講演や発表ばかりです。わずかの休憩時間に広い会議場内をあちこちと走り回った二日間でした。いずれの会場でも感動を胸にし、自分の求めているもの、進もうとしている道に自信を持ったのです。

 ただひとつ残念に思ったことは、ほとんどの報告等が医療関係者側からの発表・発言であったということでした。がんに限らず、様々な病を抱え、苦しみながらも生活している患者、そして患者家族の話も聞いてみたかったのです。そして患者側からの質問などを聞いてみたいと思いました。生意気かも知れませんが、医療の中心は医療を受ける患者ではないかと思っているからです。患者の意見に医師が耳を傾け、患者の心、患者家族の思いを聞くことによって技術だけでないより良い心のこもったより良い医療が行われるのではないかと思うからです。

患者は肉体を病む時、同時に不安という大きな心の負担を強いられます。肉体をむしばむ原因は、処方される薬などで緩和されるでしょう。或いは快方へと向かうでしょう。しかし心に宿る問題をいやすのは、心でしかないと思うのです。医師のちょっとした心遣い、看護婦の何気ない思いやりが患者やその家族の心にふれることを知っていただきたいのです。夫が死んだ時、涙を浮かべて見送って下さった看護婦さんがおられました。その姿は忘れられません。夫が心からの看護を受けていたということが言葉でなく、心から伝わってきたのです。

体が病んでも、心は健康でなければいけません。よほど強靭な精神の持ち主でもない限り、心のケアがなければ肉体とともに心も病んでしまうのではないでしょうか。思いやりのこもった言葉、優しい笑顔、患者を取り巻く周囲の暖かい雰囲気は患者やその家族の心をどんなにかい やしてくれることでしょう。

《姫路ひまわりの会》と名付けられたこの会は、今歩き出そうとしています。私たちは、医療に携わっている人たちと一緒になってこれからの医療や、また生と死についてなども考えていきたいなどと、大きな希望を持っています。
 生あるものはみな限られた命を生きています。水遠の命は与えられていません。どのように生きるかは、ある程度自分で選択できます。しかし、終末期においては、本人がどのような終末を選ぶかということは、かなり限られてしまうように思うのです。尊厳死が大きく語られている昨今です。ただ生かされているのみの意志のない生命を維持させることが命を大切にしているとは思えません。それまで生きてきた人格を大切にした行為とは言えないのではないでしょうか。
「自らの死を、怠志ある人間として自らが選ぶ。」私は夫の死を通してこの思いを一層強く持ちました。

 人は皆、より心安らかな死を迎えることを望み、より心安らかな旅立ちを願っています。がんと向き合い、冷静さを失う事なく与えられた命をまっとうした夫。心と肉体の苦痛から解き放たれたあの眠っているかのように穏やかだった夫の姿は、今私の中に生き、いつも、いつまでも私の脳裏から離れることなく、私を支え、励まし続けてくれています。
 見事だったパパらんの生きざまは、二人の子供の心にいかなまでも輝いていて生きるでしょう。

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