●「遥けくも遠く」●
「こころ」
ところが、その日の晩から死にそうな患者が隣に運ばれてくる。二日に一人ぐらいの割合で来るから、 毎晩のように死人のそばで寝てなきゃいけなかったんです。夜中に小便に起きたときなんか、なるべく見ないようにしようと思うても、顔に白いガーゼを被せた死体が見えてしまうんです。昼間は脳にしみこむような線香の匂いがただよってくるんです。も
う、ノイローゼになってしまいそうでした。
それに、雨のしとしと降る晩なんか、どこからかお化けが出てくるようでね。憶病な性格なもんだから、子供の時に「お化けは蚊帳の中には入ってこな
い」って聞いた話を思い出して、便所に外に出ても すぐにさっと蚊帳に戻ったりしましたよ。なんだか おっかなくて、怖くてね。
一人の寂しい夜が続いておったんです。 昼間には遠くの方から、毎日交代で食事を持って きてくれる人がいました。おつゆとご飯を二つ、手で持って来るんです。私の食器を廊下に出して置く
と、それにご飯を入れてくれるんだけれども、なかには高いところからガバッとついでそのまま帰っていく人もいてね、ご飯が半分以上こぼれてしまつて砂だらけのところに落ちてしまうんです。私の食器
には、なるべく触れないようについでいるんですね。 そんなのでも、こつちはお腹が空いているから、砂があれば吹き出して食べました。時によっては、食事を運ぶ途中で、自分の腹が減っているからって私の分の配給を食べてしもうて持ってこない人もおりました。来たときに、淡や唾を吐きつけていった人
もおりましたよ。
だけれども、中には後ろから手を合わせて拝みたかったぐらい有り難い人もいました。名前も聞き損 じてしまいましたけれども、その人に番が当たって食事を持ってきてくれる時は、必ずきれいにご飯を入れてくれるんです。そして、廊下の上がり口に腰をかけて、「今度は何日頃(帰国の)引き揚げがあるようだ」とかね、いろんな話をしたり、「あなたも早く病気を治して下さい」って、人間味のある言葉をかけていってくれる人でした。ちょっとした事なんだけんど、「本当に有り難い」と身に染みるよ
うな思いでした。
病気になったり、貧しくなったりすると、よくよく人のこころが見えるようになるんです。黙っていたとしても、その人の気持ちが分かるようになりますよ。
もう一人、忘れられない人がいます。
引き揚げ船に乗るために、集合所へ行ったとき、人目を避けるようにして私ひとりだけ、みんなから離れてポツンと座っておったんです。 そのときに、「加藤さん、そんな所に座ってたら
ダメじゃないか。自分から病気を宣伝するようなもんだよ。こっちに来てみんなと一緒にいろ」って、 手を取って引っ張って行き、私を励ましてくれた人
なんです。 この人は高橋さんといいました。 私が一人きりの病室で生活しておったときに、隣の死体安置所にもうすぐ死ぬからというので、運ば
れてきた瀕死の結核患者だったです。
その頃、私は院長先生の勧めもあって、毎日近くの川で釣りに行っておりました。独りぼっちの病室 にばかりいると、ノイローゼになりそうだったから
ね。
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