社会環境
 

●「遥けくも遠く」●


「偏見は続く」

 私は家族にこのような苦難を与え五十六年を過ごし、今なお生きている。療養所に入所するのに当時は収容と言った。収容されるということは悪いことを犯したから収容するというのであって、だから警官が護送することは当然である。ハンセン病だから護送する。それは強制収容であり、廃止された予防法には、そのようなことは記載されていない。

 私が入園した前年に開園した新生園は、忘れられた地とした村有地で、建てられた寮舎地帯は、必要な部分を地ならしした程度で整地されていなかった。実家で最後の朝食を取っただけで昼食も水一滴も与えられずにようやく着いたときは、日が暮れ暗 くなっていた。護送して来た警官は私達を引き渡す手続きを終えたらしく、姿をちらっと見せただけで帰ってしまった。入園手続きは分館職員によってなされ、所属する寮の人に渡されてようやく畳の上に休むことが出来た。しかし心は落ち着かない。畳はぼろぽろで表がなく、座れば藁屑がまつわりつく。障子紙は上の方に残っているだけで、炉には木炭が少し赤く見えるだけ、新入園者の私は朝食を取っただけだから、腹はぺこぺこにすいていた。ようやくタ食が出され、遠慮していたら、食べろとすすめられ箸をとったが、食事はのどを通らない。米麦半々の冷たいご飯、今までと違った匂いには胸がむかつく。おかずは醤油煮、醤油といっても、塩を入れ薄めた大根汁で、それは生涯忘れ得ない味であった。そんな訳で少し食べただけであった。残った飯は、つわもの達が奪い合うように食べるのを見たときは、実に悲しかった。私はこの中で生活するのかと思うと、心配が重なり眠れなかった。

 それでも十日くらい経つと、さすが若者で、その食事も取れるようになった。すると、病室の看護に出るようにと、寮長(当時は世話役と言った)に命じられた。私はまだ慣れていないから、と断る。ただ飯を食っていてなんだ、と叱られしぶしぶ出ることにした。朝食後前任者と交代、病状を看護婦に伝え、それぞれの要求を入れて仕事する。夜はべッドが空いておればそこに休めるが、空いていないときは押入れにて休む。朝起きたらお湯が沸いている給食の炊事場に行き、天秤棒で担ぎ運び病人の顔を洗う。一室十四人に二人の看護員であるから、一方は火をおこし薬缶で湯を沸かす。お茶をあげてから炊事場に飯器を取りに行き、食事を与えて食器を洗う。ようやく次の当番と交代し寮に帰って休む。職員の中には、あなたは誰の面会ですかと尋ねられる。私は入園して二週間目です、と答えると、そうか御苦労様ですと言われたときは撫然とする。それは早く治療して退園したいと思うからである。当時は大風子油一本やりであったが、新患には打ってくれないのである。化膿し易いからだと言うが、私はそれでもいいからと望むが許されなかった。私は何の為に入園したのか、ただ病人を看護するためかと思うと、言い知れない悔しさを覚えた。

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本文は朝日新聞大阪厚生文化事業団編集による「遥けくも遠く」
-ハンセン病療養所在園者の聞き書き集-より、抜粋、掲載させて頂いております。

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