社会環境
 

●「遥けくも遠く」●


「事実を闇に埋没させてはならない」

藤楓協会理事長
  国際医療福祉大学長  大谷 藤郎

- ハンセン病療養所聞き書き集 -  より抜粋
朝日新聞大阪厚生文化事業団・編

 全国13療園の在園者の方々の貴重な聞き書きが、牧野正直・邑久光明園長と神美知宏・全療協事務局長の解説加えて、朝日新聞大阪更正文化事業団によって編まれるのにあたって、おすすめによって私も一言述べさせていただくことにする。  血をふりしぼるような皆さんの生涯にわたるお話を私が同列に置いて意見を述べるのは、厚かましくいかがなものかと考えるが、ハンセン病間題は人間の尊厳と自由という基本的な人権にかかわる問題である。「らい予防法」の廃止によって患者さん方が拘束から解かれたことによってすべての問題が解決したわけではなく、まだまだ社会と人権にかかわって問い続けなければならない問題が残っている。ましてや結果として治るようになった病気の問題であったとして片付けてしまわれては、困る、という思いを訴えたくあえて書かせていただく。

89年間にわたり、ハンセン病の患者さんとその家族に対して言葉に表せないほどの苦難と一家の破滅を強いてきた「らい予防法」が、1996年(平成78年)4月1日、「らい予防法廃止法」の施行によって、ついに廃止された。「廃止法」案提案の前の1月には、法案提出責任者である菅厚生大臣が大臣室に居並んだ全国ハンセン病患者代表を前にして、「らい予防法」廃止の遅れたことを謝罪していた。

 そもそも一国の厚生大臣が謝罪しなければならなかったような「らい予防法」とはいったい何であったのか。
 「らい予防法」は長らくハンセン病の発生・流行を阻止しようとする衛生法規の一つであるとされてきて、当初の法律もー応そのような名目をたててはいた。しかし実態としてはハンセン病の伝染力がそれ程強いものではないことを関係者は、当時よく知っていたのであり、むしろ明治時代に"浮浪らい″と呼ばれて、家郷を追われて神社仏閣や盛り場の一隅にたむろしていたハンセン病患者の群れを近代国家の体面を汚す恥であるとして、救済と同時に街頭から排除収容するために、治安風紀上の対策として1907年(明治40年)に法律第11号(癩予防に関する件)として、制定したというのが真相であった。したがって当時の新興国家としての明治日本の社会背景や医学の進歩の程度、また当時まだ社会保障という考えがなかったことを考えるならば、この法律が当初の形のままとどまっていたとすれば、まだとりあえず救済するという意味でのエクスキュースはあったと思う。

 ところが、誰にも反対できないような伝染病予防という近代医学のス口ーガン、社会の近代化の旗印を掲げておいて、大正時代にはいると療養所長に懲戒検束権を与えて前近代的な密室的即決処分を可能にして濫用するようになったこと、昭和の時代にはいると全国すべてのハンセン病患者を監獄に近い療養所に根こそぎ収容、終生隔離するようにして、ハンセン病患者その人を社会から完全に葬り去るように法律を改悪強化しそれを強行してしまったことなど、少数者であるハンセン病を病む人と家族に対する人権侵害の法律と化させてしまったことが問題を決定的に悪くした。

 しかも、皇紀2000年を祝う国家主義軍国主義昂揚の時代に「無癩県運動」と称するいわゆる患者狩りを推進して、限られた当局や関係者だけでなく、一般の日本国民すべてに対してハンセン病患者を嫌悪し、社会排除するための思想動員とでも呼ばれるべき宣伝を一斉に行った。
 いわゆる愛国心とからめた「民族浄化」思想であり、このことによりハンセン病医学専門家と国家は一般国民に対してハンセン病患者に対する拭うことのできない偏見・スティグマ・ステレオタイプを植えつけてしまったのだ。これにあおられて国民が同じ国民である患者を摘発するという人間としてもっとも忌まわしい密告まで行われ、患者さん自身は他人の目や密告を恐れて夜間の暗がりにしか出歩けなくさえなってしまった。

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本文は朝日新聞大阪厚生文化事業団編集による「遥けくも遠く」
-ハンセン病療養所在園者の聞き書き集-より、抜粋、掲載させて頂いております。

(本文の無断掲載ならびに転写は、お差し控え下さいますよう、お願い申し上げます。)


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