● 住み慣れた家で死ぬということ ●
〜死のノーマライゼーション・死の日常化へ向けて〜
死の場所と形、自分で決める
最近、自ら死の場所と形を決めて逝かれた患者さんお二人をお見送りさせていただ いた。どちらも80才台の男性で奥様や子、孫達に囲まれての住み慣れた家での最後
だった。
だんだんと通院できなくなり、歩きにくくなり、立ち上がれなくなり、食事がとれ なくなって衰弱していったTさんは往診に行くたび、検査、入院をすすめる私にい
つもこう言った。
「せんせい、検査や入院はしんどい、もういやや。もうちょっと元気になったら入院して検査するわ。それまで待っといて。」
彼にとって妻や娘家族、そしてお気に入りの孫と愛犬のいる住み慣れた家はなによりの安らぎの場所であった。このしんどい状態で家から生活の場を病院に移すなんて考えられなかったに違いない。診断がつかないまま下血し低蛋白が進みだんだん衰弱していく彼は、でもがんとして検査、入院を拒否した。大動脈瘤のバイパス術をはじめいくつかの手術を経験しそのたびにがんばって元気になってきた彼は今回は入院しても。。。。と悟っているかのようだった。
私はただそばで看ているだけだった、そして家族もそのままでいい、そーっと看ていてあげて欲しいと言った。
「元気になったら検査するから、今はかんべんして欲しい。。。」と言い続けて彼は去っていった。大好きな孫達に見送られて。私はただ何もしないで看ていただけだったが、彼のお気に入りの孫はじいちゃんの葬式のあとで”僕も医者になりたい”と言った。
もうひとりのHさんは徹底的な医者嫌い。一生医者にはかからない、と豪語し酒、 タバコをこよなく愛した。その彼がどうゆうわけか、私のクリニックにやってきた
。そのわけは、「いきなり家で死ぬと警察ざたになるらしい。それは困る。ときど き診に来といて死亡診断をして欲しい。ただしクスリはいっさい飲まない。」
わかりました。おおせのとおりに。呼吸困難で歩行できなくなった彼を往診したが点滴、投薬、検査、酸素いっさいいらない、と言う。半分冗談でその御希望を文書で、と言った私に彼は遺書を差し出した。
遺言書
1,病院など医療機関へはいっさい入院しない。
2 薬剤の投与は受け付けない。
3.その他医療処置をうけるかどうかは、そのつど本人が決める。
この遺言書を受け取った2日後、私は病院からHさんが呼吸困難で救急入院したが 、もう退院すると言っている、との連絡を受けて病院へかけつけた。「夜中に胸が
苦しいてたまらんようになって入院してしもたがもうラクになった、やっぱり家へ 帰る、あんたに死に水をとってもらう。」結局希望どおり家に帰ったTさんは少し
の酒とタバコを続けながらだんだん弱っていった。けんめいに支える家族に見守ら れて遺言書のとおり今度は入院もせず、酸素もクスリを受け付けず本人が決めたと
おり逝っていった。私はただ看ていただけだった。
自己決定によりそう医療
本人の希望にそった医療を心掛けて町医者としてできることをしようとしたら、で きること、することは何にもなくて、ただ看ているだけだった。それでも家族は本
当によろこんでくれたし、私自身もなにかやり遂げた満足感があった。それぞれの 時点での自己決定が正確な情報と予後の予測に基づいているのか?
どうもそんなことをとんでもなく越えたところで自己決定がなされているように思えた。たとえ医者から見てあんまり賢明でない、と思える自己決定でも本人が望むのなら医者はできるだけ本人が希望をかなえられるよう支えてみても悪くないだろう。今まで患者を指導し教育し治療する医療にどっぷりつかってやってきた。でもいつかはすべての人におとずれる死の前ではそういう医療は全く無力だ。死亡診断書の作成は決して医療の敗北ではなく、有終の美を飾る患者さんに医者だけが最後にできる贈り
物だ。医者は本人がすべで思い通りに生をまっとうできるよう舞台装置をととのえ 照明をあて、最後に幕を引く裏方であって主役でも監督でもない。
死の日常化に向けて
病院という医療の砦の中での死ではなく、住み慣れた家という患者さん自身のフィ ールドでの死。家族やペットやお気に入りの食器や思いでのある家具、見慣れた天
井のしみに囲まれてゆったりと人生最後の時を過ごす。それがそんなに贅沢でかな わぬことなのだろうか。そこには患者、家族をふわっとっさえる医療者がいればい
い。決してしきったり、押し付けたり管理、指導、教育したりしない医療者が。患 者さん宅へ訪問すること自体本当に望まれているのかどうか、立ち止まって考えて
みることも必要だろう。そしてそこではとりあえず患者さんの死を決定するのは必 ずしも医師でなくてもいいかもしれない。在宅では脳死もないし、法的に定められ
た2通りの死なんて全く意味がない。家族が感じた死を医者は確かめ追認すればいい 。臨終という人生最後の厳粛な時に医者が無理に立ちあう必要もないかもしれない
。家族だけでしっかりお別れし、息を引き取った後でおもむろに医者を呼ぶのもよ いだろうし、心配ならあわてて医者を呼ぶのもいい。家族が決めることだ。ただ医
者はそれまでに家族に当たり前の死の過程について、決してもがき苦しんだり、突 然目を見据えて宙をかきむしってバタッとこときれたりしれないことを説明してお
くことだ。
住み慣れた家での死を当たり前に看取ること、死を病院から家に、地域にとりもどすこと。せっかく病院から、医療から離れて自由になろうとしている死を再びター
ミナルケア、ホスピスといった言葉で代表される新しい入れ物の中にかこいこんで しまわないように。住み慣れた家でゆったり死んでいく人を家族や、近所のおばさ
んや、ヘルパーさんや、看護婦さんや町医者がちょっとあわてたり、悲しんだり、 あきらめたり、ほほえんだりしながらなんとなく看取る、そんな死の日常化で向け
てゆったりすすんでいきたい。
☆書籍のご案内(桜井 隆著書)
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今回掲載させていただきました「住み慣れた家で死ぬということ」をテーマにした内容になっています。
主人公のたつじいさんを通して、医師・患者・家族の思いや願いが感じられる書籍です。
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