我が家の庭に花みずきの木が六本ある。最初に濃紅色のチェ口キーチーフと白色のチェロキープリンセスの二本がやってきて、毎年ゴールデンウィークの頃にはひらひらと軽やかな花容を見せてくれながら、もう四メー卜ル以上の立派な我が家の主木になった。
その後すこしずつふえてまだ1メー卜ル余りだが、ぼかしの入った桃色のジュ二アミスや葉に黄色の覆輪のあるレインボー、花(実は花弁ではなく苞というらしい)の大きなレッド・ジャイアン卜などが顔をそろえている。
花みずきにはさまざまな思い出がある。医学部を卒業して京大の付属病院で研修医になったばかりの頃のことだ。慣れない心臓手術の第三の助手として感動の一日を過ごし、その夜はICCに泊まり込んでの術後管理の見習いで一睡もしない乾燥した眼には、朝の病室の窓の外に咲くこの花が実にまぶしかった。ひらひらと揺れている蝶のような姿のこの花はなんという名前だろうと患者さんと話しあって、誰かにその名を教えてもらったのだった。
不思議なことに私のかみさんも、学生時代に東京へ出て、寮の庭にこの大木があって、ある日その名を知ったのだという。そして、小石川の植物園や調布の神代値物園でもこの木を印象深く見たという。今考えると、もしかするとそれはあの有名な、日本からの桜の木の贈り物の返礼として1915年にアメリカ使節団と一緒にやってきた40本の原木のうちの一本だったかも知れない。
私たちは結婚をして、6〜7回の転居をくりかえしながら借家住まいを続けた。米国での留学の2年間が終了したとき、アメリカ大陸のほぼ西に近いユタ州のソル卜レイク市から小学生の娘二人を交えた家族四人で東海岸まで自分の車で走った。力ナダに入ったり、またアメリカに帰ったりの26日にわたるドライブ旅行であった。いくつもの国立公園を縫うようにしてボス卜ンに達し、二ューヨーク、ワシントンと大都会を抜けて走った。バ−ジ二ア州のウィリアムスバーグという明治村のような園地が最終の地点であったが、その少し手前でアパラチア山脈のふもとにあるシェナンドア国立公園に足を踏み入れた。時は11月上旬、全山が黄金色に輝く中で、ひときわ濃紅色に色づいた野生の花みずきが目にいっぱいに飛び込んできた。
この木はアメリカ東部の乾燥した山間地が原産だと書物で読んでいた。また、この派に出る前に、30歳代のアメリ力人の青年がひとりで、断続的ではあるが5年間かけてこの大陸を東から西へと徒歩で歩き通した経験を書いた「Walk
Across America(アメリカ横断徒歩旅行)」を読んで、彼がその旅の途中このアパラチア山系でひとりで庵を建てて暮らしている老人(彼にとってはその後人生の師となる哲学音)と出会って人生の教えを学んだ場面の描写を興味深く思い出しながら野生の花みずきの群と対面したのだった。
姫路に住み着いて心臓の手術と肺の手術をしながら、在宅で療養を希望する肺がん患者のお宅へ往診を始めた。いつからこちらがライフワークとなって、1986年に開業して往診、訪問看護のチームをもち、心疾患の管理とともに在宅ホスピスケアが日常診療の中心となっていった。
患者とのコミュニケーション誌を作り始めたとき、その名前は、自然に「花みずき」ということになった。「花みずき」は年4回発行していて、98年1月号が通算42号となった。主として、患者さん自身の療養の立場からの経験を語った「手記」集であるが、いまでは私たちのクリ二ックの全活動の反映であり、表現であり、導きの糸であると感じている。その表紙の「花みずき」なる題字も、また挿し絵も毎号異なった患音さんや読者が書いてくれたものであり、この書物の表紙や「手記」のページを飾ってくれたのもこの「花みずき」の絵から転載したものである。
人にとって、いろいろな価値観があるが私は文化的な活動を大切だと思う。身体は丈夫であることに越したことはないが、健康がもっとも大切だということはない。病気や障害があることは、自分のなかに何かやりたいことがあって、それを実行するのに不便だという程度の認識でいいのではないか。病気のためにやりたいことをやれないのは悔しいことに違いないが決定的ではない。工夫をして、人と違う道を造りだして自分だけの「しあわせ観」を生み出せばよいのだ。幸せ観や理想は一人ひとり違っているのがよい。
がんは、高齢になるにつれ増加するものであり、いくら検診で用心をしていてもいつかは堰をきったように押し寄せてくる。多くの先輩のがん克服への努力には敬意を払いつつも、21世紀には難治がんの割合が増えると予想されるなかで、克服よりもがんとの「共生」をはかる場面が増加しそうだ。専門病院で自分が望む手術や治療をやってもらったら、あとは家に帰ろう。自分こそが、主治医であるという意識を強くもって、「がんで死ぬのも悪くない」を実現しよう。
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