
● パパらんの贈りもの ●
毎日毎日夫の側にいた娘。とうとう間に合わなかったのです。後で聞けば、ポケットべルでの連絡を受け、試験を中断し急いで駆けつけた京都駅から乗った新幹線が神戸あたりを通過していたころ夫は、息を引き取ったのです。
『陽子、ごめんなさい。お母さんがはっきりと受けさせませんと断ってたらよかったのに…」いえいえ、医師の前で試験の話などしなければ良かったのです。しかし9月に入っても学校に行かない娘に医師として学校は大丈夫ですか、と尋ねてもそれは当然のことかもしれません。
姫路駅で待ち構えてくれていた弟の家族が、娘を連れて来てくれました。娘が病院に着いた時、私たちは病室から出されていました。娘は着くなり病室に飛び込んで行きました。
「間に合わなかったんだ。」とポッンとそれだけ言って娘は病室から出てきました。
「ごめんなさい。もう少し早く気づいていたら。もう少し早く連絡出来ていたら。」と娘に謝りました。たった3O分、もう30分連絡が早ければ間に合っていたのです。
娘は本当によく尽くしました。悔いる私たちに「あれだけよくしたのだから、お父さんも満足なさってますよ。」と慰めの言葉を何人かの方がかけてくださいました。しかし家族にとって、そのことと臨終に立ち会えるということは、全く別の事なのです。悔しさをぶつけることなくじっと耐えている娘に慰めの言葉はありませんでした。
医師にとっては、大勢の患者の臨終に立ち合い、悲しむ家族に哀悼の言葉をかけてくださり、病院の出口まで送ってくださる。というそのような日常的な繰り返しを送っているうちに、家族にとって肉親が息を引き取る時は側にいたい、という思いがどれほど深く、強いものか想像出来なくなってしまうことは仕方のないことなのかもしれません。多分もう一日もつだろうからそれより大学の試験の方が大切と思われたお心から出た言葉だっただけに、口惜しく、悔しい思いを娘は耐えてくれたのでしょう。
どんなに手厚く看病したからといっても、やはり息を引き取る時側にいたいと思うのは、愛する人を失う家族にとって当然のことなのです。娘は―度も私の前では悔しさを口にしませんでした。でもある時ポッンと
「お母さん、お父さんよく夢の中歩いていたね。だからお父さんにとっては、死んで行く時、きっと私はお父さんの側にいたよね。」と言ったのです。
「そうよ、お父さんの側にはきっと陽子がいたよ。」と返事しました。
あれほどにまで二人の子供を可愛がり、慈しんだ夫です。きっと夫にとっては、臨終の時は、家族に見守られた中で息を引き取ったに違いありません。私は娘とともにそう思っています。
苦しみから解き放たれた夫の顔はとても静かで穏やかでした。あれほど帰りたがっていた家にもの言わぬ人となっての帰宅でした。夫の職場の方、私の職場の方も訪れて下さいました。夕方になり、ご近所の方や親戚の方も集まって下さり、やがて僧侶の読経も終わり皆さんが帰られた後、私たち家族は夫を囲み静かな深い夜を迎えました。
葬儀は友引と重なるため、通夜・告別式とも―日延びたのです。まるで残された私たちのため友引を選んでくれたかのように私たちだけの夜を作ってくれたのです。息をしていないのがまるで嘘の様な夫の姿です。私はその日の朝の事を思い起こしました。もう死の近い事を予想して一旦帰宅した時に用意した布団を敷きながら思ったのです。夫がここに眠る時は、もう語りかけてくれることはないのだと。静かな静かな夜でした。線香の香りの漂う部屋に蝋燭の火が揺れています。
「お母さん今日は、お父さんの側で寝ようかな。」と言う私に娘は、
「駄目、お母さんだけのお父さんじゃない。疲れているんやし、ちゃんと自分の寝床で寝なさい。」と言うのです。
そして夫の側にかけより、生きている夫に話しかけるように、
「パパらんだ、パパらんだ。」と言いながら、夫の布団にもたれかかるようにして、語りかけているのです。本当に生きている夫がそこにいてくれるようなのです。そこに流れていたものは、死者を前にした空気ではありませんでした。わが家に帰って来た夫を迎えた平和な光景のようでもあるかのように思えたのです。語りかけてくれないのが不思議にすら思えるのです。このまま時間が止まったらいいのに、と起こり得ないことをふと思ってしまったりもしました。
葬儀には、本当にたくさんの方が参列してくださいました。通夜にもすでに中学生となっていたかつて夫が小学校を送り出した子供たちも来てくれていました。抱き合って泣いている女の子たちの姿に夫の学校での生活をしらなかった私を感じました。子供たちに慕われていた夫を改めて知ったのです。娘も、
「お父さんて、木当にいい先生だったんやね。」とつぶやいていました。
|