社会環境
 

●「遥けくも遠く」●


「こころ」

草津栗生楽泉園 男性 88歳

- ハンセン病療養所聞き書き集 -  より抜粋
朝日新聞大阪厚生文化事業団・編

 

 「戦争は、人間の本当に大切なこころをなくして しまう。今でもそうだろう。豊かになったが心が貧 しくなった」。  日本人の心について加藤さんはそう語る。
  一九四三年、三十三歳の時に軍隊の中では最も 「奴隷的な扱いを受けた」軍属として戦地にかり出 された。「天皇陛下のために」と勇んで赴いた戦場 は、日本兵同士でも上官が部下を殴り殺すような惨状だった。
  毎日わずかばかりの食事で、過酷な作業を強いられる中、加藤さんはハンセン病を発病する。敗戦が間近となった七月五日、シンガポールでのことだ。
 二度目の大きな不運が始まったとき加藤さんは何を見てきたのか。秋田なまりのやわらかな語りに耳を傾けた。
 シンガポールから、捕虜集結所のあるバトパハへ移動したときのことです。
  私は五十人ほどの結核患者らと一緒に小さなポンポン船に乗せられました。船の中で、みんなござを敷いて二枚に三人位ずつずらーっと寝ておったわけです。だけんど、私ひとりんだけ、一番隅に置かれました。病気が移らんようにということで、頭から三尺四方の箱を被せられて、しかもその上から毛布を覆われたんです。それは、まるで檻に入れられた気分でした。
 常夏のマレー半島だから、そんなことされたら暑くて暑くてしょうがないんです。そのうち、小便を したくなったけんども、小便もできないでしょう。 それで我慢ができなくなって困ったから、手元にあったサイダーの瓶にそれを貯めたんです。ちょうど脇がすぐに海だったから、毛布をめくってポッと外に投げたんですよ。それを見てた人がいてね、ほうしたら何人かに棒でつつかれたり、殴られたり、散々なえらい目に遭わされました。

 それで周りでは、「これ、何?どういう病気だろう」、「レプラだよ」、「レプラって何だ?」、「らい病だよ」、「らい病なんて!こんなの日本に行くまでに早く銃殺してしまった方が良いだろうがな」ってい うような話が、その檻の中いるとみんな聞こえてくるんですよ。まあ、自分でもこんな思いをさせられるより、いっそ銃殺で殺された方がさっぱりするなって思いました。
 私のは、伝染力がとても弱い病気だったんですよ。全くひどい仕打ちでしたよ。

  バトパハまで着いた後は、他の病棟からは遠く離れたゴム林の中の隔離病棟に置かれました。
  その病室は、なんでも精神病者のために作られた部屋だったらしく、厳重に金網が張り巡らしてある造りでした。隣の部屋は、死にそうになった結核患者を放置する死体安置所になっていました。
 私一人この病室に移されて、自由に便所はできるし、誰に気兼ねするとなく出歩けるから、最初のう ちは喜んでおりました。「ああ、ここだったら清々して生活できるから良い」と思っておったんです。
 

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本文は朝日新聞大阪厚生文化事業団編集による「遥けくも遠く」
-ハンセン病療養所在園者の聞き書き集-より、抜粋、掲載させて頂いております。

(本文の無断掲載ならびに転写は、お差し控え下さいますよう、お願い申し上げます。)


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