社会環境
 

●「遥けくも遠く」●


「偏見は続く」

東北新生園 男性 七十七歳

- ハンセン病療養所聞き書き集 -  より抜粋
朝日新聞大阪厚生文化事業団・編

 母死にて十三回忌迎ふるに
予防法廃止を告ぐるに遅し

 私の療養生活は五十六年になってしまった。思えば昭和十五年十二月九日それは入園ではなく収容であった。その日は同級生達は十二月十日軍隊に入隊する為出発する日で、大日本帝国の戦争中であるので国民全部が興奮しているような世情であった。駅から出発する時間は同じで、隣の村からも町からも同隊に入隊するため、見送りする人々はぎっしり駅に満ちていた。もちろん私の知る人々もおり、君も見送りか、と話しかける人もあった。時間を待つのは長く度々警官が来て見廻っているが、私を人混みの中から発見出来ないのである。

 駅のホームの遠くを見たら、七、八人の人が居て、警官が二人立っているのが見えた。あの中から一人足りない私を探して時々見廻っていることを知った。その日は朝から大雪で寒い一日であった。いよいよ出発する時間が来たので、足早に近付くと警官は叱りもせずホッとした顔つきをした。汽車が来て乗り込むのであるが、当時私達の乗る客車の一つが貸し切りで、他の者は乗れないと張り紙がしてあった。その客車はお召し列車であると言われていることは後で知った。

 いよいよ発車、前の方は見送り人でぎっしり、その人々が一斉に万歳万歳である。軍服を着た同級生達は列車の窓から身を乗り出し、歓呼の声に興奮して応えていた。その家族にとっても実に名誉な時代であった。
 私はお召し列車の中から、顔を隠し送って来た母を目で探していた。そしたら人々から離れた物陰に角巻をすっぽりかぶり、一人見送っている姿はほんとうに哀れで、大きな声で泣き叫びたい思いでいっぱいであった。同席の者は私を除いて若い人が一人で、あとは年老いた人ばかりで、じっと下を向いているだけであった。別な席に警官が二人、私達を監視していた。私達は何一つ悪いことをしていないのに、悪人扱いである。その状況は母も見ており、入隊者を送った部落の人々、村の人々も見ていたはずである。その行動を説明してくれたなら、病人もその家族も幾らか理解したのにと思えてならない。あなた方の病気については、予防法という法律があり、町当局も警察も、その法に従うだけだ、くらいは説明してくれてもよさそうである。病人の収容に当たって警官が護送するくらいだから、相当に危険な病気であるに違いない。このような思いを人々に植え付けてしまったのが予防法である。

 見すぼらしい姿の母は、雪道を独りどんな思いで帰ったのであろう。妹はいるが一人息子の私である。家を発つとき親父がポツリと、早くよくなってな、元気でなと言っただけだが、母は一言も話さず、悲しみを心の中に閉じこめてしまったのかもしれない。
 私の発病によって、この悲しみだけで終わるはずがなかった。隣近所はもちろん、親類縁者の大半は私の家と出入りをしなくなった。親族の誰かが死んでも教えてくれないし、一切交際なるものが無くなった。ハンセン病はその家の血縁がよくないから出るのであって、息子や娘の結婚に大きな影響を与えるからというのである。無知なことは、その家を絶たせてしまう。このような重大なことも、ひとの痛さは三年も五年も耐えろ主義で通されてしまう。こんな訳で言い知れない苦労を重ねて過ごさねばならなかった。

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本文は朝日新聞大阪厚生文化事業団編集による「遥けくも遠く」
-ハンセン病療養所在園者の聞き書き集-より、抜粋、掲載させて頂いております。

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